明主様 一つの波紋3

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明主様

一つの波紋3

明主様信仰者の投稿から始まった『一つの波紋掲示板』の3代目。
信仰・思想の枠を超えた交流場所になりますように。

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改心 佐藤 孝

2022/09/18 (Sun) 10:05:49

高校生の頃に、一度だけですが幽体離脱を体験した事によってハッキリと確認出来たのは、
肉体の中身、霊身・霊体の方が自分の本体であり主体であるという事実。

目の前にうつ伏せて動かない、もう一人の自分を見る、という不思議を体験した訳ですが、
夢でも見ているのか?と思ったり、改めて部屋の様子を一回り注意深く観察したり、など。
物を見て考えて何か思ったりしているのは全部、抜け出している方の「霊体の自分」でした。

うつ伏せて寝ている肉体の方の自分が、うしろに抜け出た自分を見る状態じゃあなかった。
なので、死んだ直後に人はどうなるのか、という事について私はすでに体感で知っています。
肉体という身体から離れる事になるだけで、死んだ後も死なないという(当時驚きの)真相。

死を境に自分の意識や思考や何かが特に変化する訳でもなく、今のまんま。何も変わらない。
唯一変化は、現界・物質界の人や物など、あらゆる物質との接触を一切絶たれる事くらい?

間もなく体に戻れたから、今もこうして現界に生きてますが、もしあのまま戻る事なく先に
進んでいたとしたら、自分の葬式を見て死を覚り、皆に別れを告げて三途の川を渡り、更に
閻魔庁で浄玻璃の鏡と対面しながら裁きを受け。とまぁこの流れは推測であり未知ですが。

それでも思うのは、産まれて~死を迎えるまでの一連=自分の人生、と捉える考えは多いと
思うけど、でも実際は自分の人生が死をもって、そこで終わる訳じゃない。その先もまだ続く。
だから自分は、一先ず(少なくとも)閻魔庁辺りまでは想定・視野に入れながら生きてます。

その設定は、自分が現世を生きるうえに於いても、また霊界入り後でも、どちらの界で検証
してみても、共通で自分にとって善い作用・影響しかないと確認出来るのでそうしてます。

審判のテーマは「心の立て直し」つまり「改心」ですが、この現世に生きているうちに
どれだけ順調に改心が進められるか、は結構な勝負どころだと思っています。結果として
それが多くの人の為になるのは勿論ですが、他の誰でもなく自分自身の為に精進し続ける。

自分に専念するその精進が、最終的に本当に自分自身の為となるので、そのまま文字通り
「改心するのが身の為」である事の理解は出来るかと思います。閻魔庁までが視野に入れば。

思えばこれまでの自分は、この改心の素晴らしさを充分に伝えきれていなかった様に思う。
白ぽっちさんのお陰で掲示板も第3弾に。ホップ・ステップ・ジャンプの最終章、いよいよ
ジャンプの段(?笑)に突入して行く時期を迎えている今?なのかも知れない。

そう思うと、それに相応しい実のある話から入って行きたいしなぁと、あれこれ思い悩んだ結果、
こんな入り方となりましたが、改心については、またそのうちに投稿したいと思っています。

みなさん、今後もどうぞ宜しくお願いします。

Re: 改心 - かえ坊

2023/03/30 (Thu) 23:21:45

佐藤さん

詳しい解説、ありがとうございます(^^)/

自分から湧いてきた思いを、まずは一度受け止めてみることですね。心にとどめて気をつけてみます。

>まぁ、ざっとそんな感じですが、不快と不満は結構混同しがちかと思うので、
>次回、その辺りについて書いてみようと思います。

期待しております!!

Re: 改心 - 白ぽっち

2023/03/30 (Thu) 09:17:40

あれ、ほんどだね(苦笑)
伸ばすかどうかは任せますね(笑)

あれっ? 佐藤 孝

2023/03/30 (Thu) 08:03:51

白ぽっちさんから聞いてたから、この枠での投稿は出来ないと思いつつも、

投稿したらどんな感じの画面が出るのか見てみた興味から試しにやってみたら
何かしらんけど出来ちゃったみたい(笑)

でも、もうだいぶ長くなってきてるし、100は丁度良い区切りでもあると思うから、

次回から「改心2」の新枠で書こうと思います!^^

無題 佐藤 孝

2023/03/30 (Thu) 07:58:38

かえ防さん

いつもどうもありがとう♪

>例えば、人が協力してくれない、という不平がでてしまった時に、あ、これはいけない、

信仰者あるある、と思います(笑)

私の場合だとどうなるかで話すのが一番伝わりやすいかと思うので、そんな感じで伝えてみますね。


人が協力してくれない、という不平不満が出るほどまでに

自分は協力して欲しいなぁ、と強く想っているんだなぁ~。という自分自身の今の心の状態を

しっかり把握し受け止め、その心をそのまま丸ごと愛してあげる感じです。

シンプルに言えば、自分が自分自身の一番の良き理解者で居続けてあげる、という事。

その心の状態は自然発生的にすでに起こって来た事実なので
そこには良いも悪いもなく、ただそうである。という事と。

その思いを先ず初めに自分自身が受け止めてあげて、そこに共感してあげられない
(自分分裂状態の)うちは順調に先に進めない、と実感している感覚で。

その自然発生的に湧いた想いを「先ずは丸ごと愛す」というのが私流です。

>あ、これはいけない、魂も曇ってしまう

この部分は、教えで知った知識の部分による善悪判断。

>協力してくれないということは、神が一人で頑張れると言っている、と受け止めよう、

この受け止め方については無限の自由が与えられていて、どう受け取ろうとも本人の自由。

ただ、神がそう言っている。という解釈の部分について、その神とは

自分が創り出している神だと自覚出来ると良いような気はします。
(私の神はそういうタイプではないので(笑))

私の神は「本人がどうありたいか」について余計な口出し?というか方向づけみたいな事は一切なく。

全てを自分自身に委ねて下さっているし、それは自分の事を完全に信じて下さっている事でもあるし

それが最大限の尊重であるなぁ~と。


まぁ、ざっとそんな感じですが、不快と不満は結構混同しがちかと思うので、
次回、その辺りについて書いてみようと思います。

期待しててください(笑)

Re: 改心 - かえ坊

2023/03/30 (Thu) 01:39:33

佐藤さん

いつもありがとうございます。ようやくゆっくり読むことができました(^^)

この改心のテーマ、なかなか深くて理解しきれていない分もあるかと思いますが、とてもためになっています。

読んでいて、ようやくわかったのが、關さんもいろいろな話をするのですが、人間は愛と許ししか与えられていない。裁く権限ががあるのは神のみ。自分自身を愛せなくては人を愛せない、という事を度々話しています。このことを詳しく佐藤さんが話してくれているのだなと思いました。それで、關さんが言われていることが深まりました。

私もやはり自分自身の苦痛を感謝で打ち消す、というのをやってしまいがちです。その苦痛や不快というのを一度自分自身で認めると良いのでしょうか?例えば、人が協力してくれない、という不平がでてしまった時に、あ、これはいけない、魂も曇ってしまうし、協力してくれないということは、神が一人で頑張れると言っている、と受け止めよう、みたいになってしまうのですが、これって佐藤さんのいう改心になっていますか?

自分自身の悪の部分も受けとめる、というのは、自分自身を愛すること、というので、少しは分かれたかなと思います。

あと、霊視に対するご意見、ありがとうございます。私も鵜吞みではなく、理性をもって受け止めているつもりです。でも、この霊視があることで、これからの厳しい縦わけの浄化が、もう近くまで来ていることが、信仰始めたばかりの方にもわかりやすいかと思い、今だから必要なのだとも感じております。

明主様のメシヤ降誕本祝典を行わなかったことも、時間を伸ばし伸ばして、一人でも多くの人を救う御心だったのだと、ヒーリング協会では受けとめていて、光ペンダント拝受によって救う側を増やし、御神体御奉斎で光の柱を多くし、日本の曇りを減らし、大難を中難、小難に許されるように活動しております。

改心の続き、また、期待しております。

Re: 改心 - 白ぽっち

2023/03/26 (Sun) 11:10:07

設定の仕様上1つのタイトルにMAX100記事までしか書けないようなので、
100に到達したら、新しいタイトル、改心2とか新・改心とかで新しく作ってください。

よろしく~。

潜在意識・無意識 佐藤 孝

2023/03/26 (Sun) 10:05:44

人間の脳は、全体の内のわずか5%?10%?程度しか使われていない、と
云われているらしいです。

人は小宇宙とも云われたりしますが、大宇宙の未だ解明されていない領域など、山ほどある
だろうし、もっともっと小さく地球規模で見た場合でも、海の奥深く深海部や地球の内部、
深層の中心部(核)についてなども、まだまだ把握出来ていないことだらけだと思います。

人間の心、潜在意識・無意識の領域についても、それらと同様の重なりをイメージします。
だから、たまには自分独りの静かな時間を取って、自分の奥深くの自分との対話も大切。

本当の、本当のところはどうなの?っていう自問自答が、答えを教えてくれるもんです。
(奥深い処の真の自分、元々神から授かって在る神性の自分・真我は答えを持ってる)

また原罪についても、その深層に多く潜めばこその、全く身に覚えがないものと思います。


普通「改心」の、かえりみる事に取り組もうとする際、潜在意識の方に着目する訳ではなく、
顕在意識の把握出来ている狭い範囲内を頭の中でグルグルと巡らせがちと思うのですが。

自分自身で承知出来ている範囲内に関して、特に信仰者は「悪い部分」を持ちませんから
そこ(表層の範囲内)に【邪】を探そうとする事自体に、実は【無理】があったりします。

「氷山の一角」という表現もあるくらいですけど、【邪】の性質として。
本人には絶対にバレない様にひっそりと、巧みに身を潜めて居るからこそ厄介な訳でして。

顕在意識に存在する邪がもしあったとしても、そんな浅い処のソレは大した問題ではなく、
そのまま放っておいて、完全にうっちゃらかしておいても全く問題じゃない位のもんです。
(何故そう言えるのか、ですが、その理由は「仮にも誠を持った信仰者」だから、です)

自分で把握できている範囲内(顕在意識)の自分。その今の自分の事は「丸ごと全肯定」
してあげて大丈夫で。自らを責め咎めするダメ出しに【歓喜(神の気)の要素は皆無】です。

余計な思考で落ち込んじゃって、内在の邪を昇華して行く事に前向きになれない事の方が
よほどのマイナスで、一般的イメージの懺悔的反省などしているヒマがあったら云々と(笑)


卑下の常中化が、最も「真の改心(原罪の清算)」を遠ざけてしまうのも、その中身が、
常に自分のあらゆる面を悪と観立てては、その悪を出さないようにと「改体」を意識する。

年中自分の状態に気を配る細心の注意と言うか、完全なる自分監視状態にあると言うのか。
そんな状態にある結果として、逆に「落ち度がない位にまで常に我が身をかえりみている」

という意識が。こんなにまでやり尽くしている、という様な「出来ているつもり」を生む。
本来、顕在の監視など(誠在る信仰者なら)一切必要無いくらいのもんだと言うのに。

また、「綺麗な面だけを出す」片手落ちの改体も「ちゃんと出来ている」錯覚を更に手伝う。

これ以上、何処をかえりみたらイイのか。という、ある意味慢心状態の逆回転に陥ります。

神に真向かう本物の信仰者としての自分の【中身自身】を、もっと真剣に信じてあげる処
から始めないと、出発点がすでに(中身が悪い前提)では、逆方向に向かって曲がるから、
先ずは意識出来ている部分の自分の中身は全肯定する事に挑むというのが先。

この話はちょっと繰り返し的になっちゃってるかな?まぁ、だとしても。

ここがとても重要な処なんですが、人は誰でも自分の信じたものを観るという性質があり
その原点となっている【大前提の設定】が、「自分は悪い部分を沢山持つ悪者」なのか
それとも「自分は本物の信仰者であり、自分の中に悪の部分を許容しない者」なのか。

シンプルに「信仰者なのか信仰者ではないのか?」一体どっちなのか。を先ずハッキリと
させたうえで、大事に(少しづつ)取り組んで行く必要があるという事です。

その必要の理由も「本物の信仰者」であればこそ。何かを機会に自分の妙に曲がった部分と
出逢った瞬間に、「その違和感」をいち早く敏感に察知する事が可能となるのですが。

悪者設定で居ると、その瞬間にさほどの違和感を感じられないようです。それもそのハズ、
そもそも自分はそんなに出来ている者ではないから。という設定になっている訳ですから。

簡単に見過ごす事ができちゃう。

まぁこんなもんでしょう【人間なんだから】と。
(信仰の本分、中身が神と成る処を目指すという尊い気を失った中身の発する典型発言で)

これがとにかく勿体ない。

卑下とは本当に罪の状態をいつまでも抱え続ける存在と思う。


と。まぁ、そんな訳で、超肝心なのは【潜在意識】の内に潜んでいる【邪】の部分なので、

みなさんの【大前提の設定】が【本物の信仰者】と定まったテイで

また後日、あらためて話を進めてみたいと思います。

無題 佐藤 孝

2023/03/20 (Mon) 08:12:57

>長文で全部は読めない。
>斜め読みしてますが、

どうもありがとう♪

その人なりの一番無理のない読み方を理想と望んでますので、今後も

そんな感じ(無理して理解しようとはせずの自然体)で読んでくれたら嬉しいです^^

Re: 改心 一番

2023/03/19 (Sun) 23:37:27

すごいな、佐藤さん、
長文で全部は読めない。
斜め読みしてますが、

白ポッチさん、秀明が子供を置いて、外に出て行っている。

旧体制、布教時代の話ですね。

少なくとも、私の支部はそこまでない。緩和されている。

でも佐藤さんがいう、
「神を知る」が、「感じる」というのは、共感しますね。
確かに。

また、お詫びが改心ではなく、改心がお詫び?。

なんか頭の中が、ごちゃごちゃして、
苦るしくなる。

『誠』ですね。僕はどちらも正しいと思う。


王仁退治(胎児) 佐藤 孝

2023/03/19 (Sun) 10:36:39

要するに、その時々の内に感ずる快・不快を、その想いのまま(感じたまま)に体現。が
本来の自然の姿(自然体)という、これ以上無い位にもの凄くシンプルな話ではありますが。

ただ、赤ちゃんの、そのままでは中身が十ではあるものの、1の初発の段階であるだけに、

いい大人が、それをそのまま真似していきなり世間に体現すれば「ただのバカ」(笑)という事で。

実際には智慧も働くから、いきなりのフルオープンなど勿論誰でも不可能とは思いますが。


自然の流れとして、赤ちゃんが、これから生きて行く為には、まだまだ未熟で不完全だから、
物心がつく頃を境に1から2へ両極二元の差(3~4~9まで)を充分に学んでからのちの、

九分九厘まで進んだ先に、越えられない壁(節)にぶち当たった処での【中身のもと還り】

二元の両面学びきる事で熟成し、そこから元の天然美へと還せばこそ、進化した成熟と実る。


その一連の(体主の)流れはどうしても必要不可欠だった、という事なんだろうと思います。


体主だけに物心。っていうのも面白いと思うけど、

陰陽の「差」が生まれる事で段々と「陰の退き」も進んで行く事になると思いますが、

九分九厘まではそれで良くて。最終の開くカギが【退治(胎児)】です。


鬼(おに)は転じると仁王(におう・二王)となりますが、原点から在る無垢の陰陽二柱
(仁王)の両立。鬼(陰)の立ち上がりで揃い踏み。片手落ちからも卒して行くという流れ。


先日投稿の最後のほうにも少し書きましたが、

体主が習慣づけば、自ずと封じるのは陰の側なので、陽は元々持っているし出せているから
何の問題も無いのでそのままで良く。ポイントとなってくるのが「陰側」という事です。

こちらも元々持ってはいるんだけど、無い事にしていたり、又あっても出せなかったりする。

喜怒哀楽で言えば喜と楽。快と不快で言えば快の陽側の心にお出まし頂く事には賛成でも

逆側の怒と哀、また不快の陰側の心を退かせようとする【半分の封殺が十全を阻止する。】


豆撒きに対する改心が必要なのは、風習(形的なもの)だけではなく、自分の心に対して
のそれである事も、もう書いて来ましたが、

もっと正確に言えば、心のうちの半分、陰側に対する豆撒き(退かせ様とする)
自分の心の内に注目し、じっくりと感じてみる必要があります。

内に(本質へと)向かうから一切の原点である自分自身に起因(根本解決)へと進みますが、

それを外側にのみ注目し続ける結果はもちろん片手落ちの半分であって、外側のみの半分では
永遠に根本解決(不二の結び、両方揃った合一の歓喜)は叶わない、という事です。


内外問わず「陰に触れた際に動く心」、その心の内の「完全未昇華部分」に当るその顕れが、

そのまま内外問わず「人を裁く心(豆撒きの心)」で。

未だ二元の争いの領域内に在る間は、その「心の豆撒き(裁き)」を

外(他)に向けるか内(自)に向けるかの違いがあるだけ。

豆がどちらに向かおうとも、結局は二元の優劣が真に取れた平ら(一元)に成らない限り、

優劣の押し合いへし合いから逃れるすべはなく、外・内ともに「しんどく重い」もので。


根本的【心の豆撒き】を卒しない限りは、あちらを立てればこちらが立たず、の半分だし

陰に触れた際には、それを「きっかけ」として向いた方向の者を責め咎めするの堂々巡り。

責め咎めの心とは、もう改めて言うまでもないかもですが、まんま【心の豆撒き】です。

神も自他共にも、誰も喜べない「人を裁く」等の心は、越えて行く必要ある事とは知りつつも

難関だけに手こずる訳ですが、そりゃあ難しい(時間が掛かる)に決まっていると思います。

原罪(三千年の罪穢れ・一番奥の無意識領域に在る心の課題)であるだけに。


【自他一体の鏡合わせの世】(日月地=五六七=玉剣鏡。地=現界は七であり鏡の世)
ですから、その自分の中身の陰側を悪と裁く状態が、そのまま悪(邪神)を憎む心とも
勿論繋がるし、鏡合わせの理によって外側に悪(=自分)が反映されて観える仕組み。

自分の半身(陰側)を封じるから、それが表に悪と顕れる。(外の悪=自身の影です)

神示にも【悪を抱き参らせる】とありますが、何とも洗練し尽くされた表現だと畏れ入る。

特にその悪を、外とも内とも特定されていませんが、先ずはやっぱり自分が其の一でしょう。

悪憎む心が悪なんだから、自分の悪にハグしてあげられる様になれればイイって事です。
(言うのは簡単でも、やるのは中々難しいと思います。だけど、その気になれば必ず出来る)

別の言い方をすれば、自分を許してやるって感じかな。ケツとか引っぱたいたらあかん(笑)
みたいな事ですかね。自分に優しくあれ。っていう表現もできるかな。

ま。そんな感じです^^

陰の退きを治す鬼退治ですが、胎児の型「一つ巴の図」を見ても、
線の原点は頭の天辺付近ではなく、へその緒の位置?辺りと重なっている様にも思えます。

腹が重要である事は、明主様の腹中に宿される諸々の経綸にも示されてある通りですが、

昔の武士の切腹などに於いても、何かにつけて「覚悟」を決める。というその感覚は、

頭で出来るものではないという感覚があるし、腹をくくる、腹帯をしめて、など

何かに対して真剣に取り組む時のその姿勢には、必ず腹で覚悟を決める的な、そんな
腹でする決意的なものがある様に、何かと腹が大事になると思います。

天地がひっくり返るというのも、頭を善とし腹を悪と観る段階から一転、180度転換して
腹で考え決める腹くくり(菊理)の覚悟が必要な段階へと進むように出来ているのかもね。

だから天神様の細道にも「行きはよいよい帰りは怖い」と謡われて在るんだと思います。

またまた結構長くなりましたが。今日はこれにて終わろうと思います。(拝)

赤子心 佐藤 孝

2023/03/19 (Sun) 09:25:13

赤子心には一切の【邪】が無くて(=無邪気)という事と、

【純粋無垢】=(混じり気)もなく、心に付く(垢)も(無)い。という事の証明は、

目で見て確認する事の出来ない霊の部分(内面の状態)であるハズなのに、何故だか確かに、
確実に。誰の眼から観ても明らかに。明確に観て取れる、絶対のものではないかと思います。

また、心に邪の無いその状態は、審判(裁き)の対象外(=無原罪)である事、要するに
神の戒律に背く(神との分離)以前の、裸で穢れ(気枯れ)の無い状態であるとも思います。


その初発の段階に元々備わる自然そのものの天然美(内面)を、あらためて考察してみると、

そこに在るのは、自然発生的に中心から湧いて出て来る【快or不快】の陰陽二柱(仁王)


それを思考で制御・抑制する事無く、内面そのままを全身で表現・体現する赤ちゃんの

「内(霊)外(体)一致」は自然体(天然美)であり「霊主(絶対善の内感主導)に体が従」


つまり【生命力の最も溢れる状態】には内側に陰と陽との両極を、優劣の差なしに併せ持ち。

その時々の【内に感ずるがままを体現】云わば心言行(内外がズレる事のない)完全一致
の状態にあって、決して二極の揉み合う事なく、場面に応じた【(両)面を体現】します。


その状態が1(初発)であって10(両極を合わせ持ち兼ね備えた十)の、【1・10(ひと)】
本来の【真・善・美】の姿(お手本とすべき超自然体・超凡の基本形)だろうと思います。

ちなみに、ここで言う真・善・美とは、三つ共全て反対側の対の存在しない「絶対」の意で、

偽に対する真の意味ではないし、悪に対する善の意味でもないし、醜に対する美の意味では
ありません。(二元の陰側を悪とし低く観る半分の真善美ではなくて両者平で併存の一元)


「真と偽との一段上にある(真)」であり、それ(真)は観方によっては善にも悪にもなり。

「善と悪との一段上にある絶対(善)」であり、それ(善)もまた観方によって上記に同じ。

「美と醜との一段上にある自然(美)」であり、その(美)もまた対の優劣が無く上に同じ。


二元陰陽の調和している一元は、言葉で伝えても中々伝われるものでもなくて。だけど、
元々誰の中にも最初から備わっている(天賦の)感覚だから、内に感じる感覚に敏感となり、

更に時間を掛けながら陰の退きが治れば【心の平ら】も必ず実感・体感出来る事と思います。


思えば、土の聖地【平安郷】も、二元(神仙と瑞雲)が「安らかで平らに調和の一元」と
成れてこその完成と思いますが、中々順調に運ばない体的なこれ迄の流れをも全て含めて、

そういう実際に起きて来たあらゆる現象・事象の全てが、まんま神の示される【型】として、

神(隠れ身)からのメッセージとして、下座の位置から有難く受け取らせて戴こうと畏めば、

一切は霊主体従「本来の順序」が大前提として在り、それが「順調のカギ」である絶対法則も

体的聖地完成を目指す一連の型も、


実は【一人ひとりの心の中に】その【平安郷】の一元を樹立・完成させて行く事の重要性と。

各々の内面にて完成するならば自ずから成る、の【霊が主】である事の順序を、

型の示しで伝えて下さる神の深い経綸(仕組み)その意図を感受します。


又、聖地ばかりではなく【何事も一事が万事】という事は、日常でも結構頻繁に実感しています。


両極の対比(優劣の差)を越えた【一段上】の話を書いたついでにもう一つ。

一事が万事は「執着」や「慢心」についても同様に、一切は、半分の段階の過程的な問題で。

奥に内在の【一段上】を掴めば、慢心を【越えた】慢心がOKの真意も判る事と思います。

(執着にも、決して見失い、無くしてはならない大切な執着はある。みたいな事です。)


いつも通り(笑)若干横道にそれ出したので、次の投稿で再び話を戻そうと思います。

無題 佐藤 孝

2023/03/12 (Sun) 12:51:50

次に思い癖(体主)の傾向について。ですが、何事に於いても両面合わせる事によって
片手落ちではなくなるよう、仕組み自体がそう出来ているので、陰陽・善悪・正誤など
出来れば一旦、白紙に戻す感じで、それこそ赤子心で読んでもらえたら嬉しいですが。


内にある汚れが外に現象として顕れてくる浄化の順序ですが、病気に限らず対人関係や
今現在与えられている環境に対しての不満なども総じて【イヤな事やツラい事】など。

自然の流れの中で勝手に起こって来る【その心の作用】に対し、出来ることなら誤魔化さず、
心静かにそのまんまを充分に感じてみる。という事が、今の自分自身の心の状態を、正確に
把握する・自分自身を知る事に繋がるとても重要な事で、欠かす事の出来ないものです。

自然と感じる「苦」や、避けては通れない「不快」等、その【心をじっくりと感じきる事】
がそのまま【浄化を浄化たらしめる】という事に繋がります。でも、これは

浄化の原理を知識(頭だけ)で理解している程度だと、どうしても無意識のうちに浄化を
避けたいという想い(恐れ)が内在していたりするもので、完全に安心して受け入れられる
ようになる為(惟神)には、ある程度の体験を重ねた腹落ちによる理解と。それに加えて

あらゆる全てを受け入れられるだけの「心の器」。 もう少し別の表現で言ってみれば
「自分の信仰に絶対の自信を持ち・逃げない心・どんな事でも受け止められるだけの勇気」
など、かなり強靭な精神力・心のゆとり。ある程度の「心の大きさ」が必要と思います。

こればかりは、信仰の年数(体験の多さ)なども多少関係してくるので、入信間もない方
にとっては、まだ相当の無理を伴う話かとも思うので、決して、心して無理はしないで下さい。

多少関係と書いた理由も、年数や体験が多いからと言って、必ずしも全てを受け入れられる
心の状態になれている訳でもない(むしろ、ほとんどの場合、身体の浄化に対する理解は
深く腹落ち出来てはいても、心の陰側の受け止めまでは出来ていないのが普通です)から、

そう言った意味でも、信仰に入って間もない方にとっては、それ程焦らなくても大丈夫。
的な?一先ずの安心材料(落ち着ける要素)的なものにはなれるかも知れません(笑)

どちらかと言えば(どちらかと言えばですけど)、私が書いている「改心」の話は、
信仰歴の長い人、明主様信仰を長年続けて来ている中で、身の周りの問題が全て解決方向に
向かえていない人、浄霊だけでは乗り越える事の出来ない壁(節)にぶち当たっている人

メシヤ様が審判の型で示された「筵の上で土下座する」信仰上級者(非常に縁が深い人)
向けに書いているので、特にまだ信仰歴の浅い人にとっては、これをしなければいけません
という内容ではありませんから、あまり背負い込み過ぎない様に特に気を付けて下さい。

何故なら、中身が神と成って行く為の話なので、型で言うとちょうど「鎮魂帰神法」に
通ずるものがあるから、御教えでも確か明主様は「鎮魂帰神」について、危ないから。と
お言葉があったように記憶していますが、それ位、心して掛かるべき取組み内容なので。

もしこれを読んで、少しでも「怖い」と感じるようであれば、それは今、現時点のあなた
にとって、まだ必要のない話だと思いますので、可能なら、その心のままにでお願いします。

とにかく【無理をしては絶対にダメで。無理をしてまで理解しようとしない事】です!

話を読んでいて、解らなければ解らないままで居るくらいで全然良い。
(それも精神の安定を図る為に必要な、自然防衛反応のうちの一つだったりしますから)

理解したくて(心から、魂レベルで欲して)読みたいと感じれる時以外は、
サラッと流し読みくらいがちょうど良いのかも知れません。

とは言っても後々には、やっぱり向き合って行くべき必要な事として、その本質には何ら
変わりはないので、私の気持ち的にはそんな想いを含んだ感覚を持って書いている
という事なので、今後もお付き合い頂く方に対しては、改めて宜しくお願いします(拝)

そういった破壊(精神崩壊・心の地雷を踏む危険性)と創造(新しく生まれる)の両方を。
特に、前者の破壊面の危険性(無理をすると危険ですの意)を踏まえたうえで続けます。


わりと多く見受ける(私が思う残念)パターンとして、「浄化はありがたいものである」
と教わる知識も手伝ってか「心から湧く感謝」ではなく「思考で感謝しようとする感謝」

つまり、感謝出来そうな内容のものを持ち出して、それによって「不快を相殺」するような。
簡単に言うと「感謝で不快を打ち消してしまう」という思考グセが結構多いのですが。

その(クセの)結果は、肝心の【心にその状態(不快)を感じきる事】を疎かにしがち。
もっとも心に感じる苦や不快などは、普通に誰もがイヤだと感じるものだと思うから、

無意識のうちにそうする事で苦痛を軽減できる、ちょうど薬(痛み止め)を自動的に飲むの
と同様な効果があり、精神の安定を図る為には自ずとそうなる(自己防衛反応)と思います。

とにかく、非常に多いと感じるパターンが「感謝」を持ち出して不快を「相殺」する流れ。
それで(不快を感じなくする事で)綺麗になったと誤認しているパターンです。

「感謝する事が出来ている自分」というのは、これもまた、誰にとっても「心地良いもの」
ですから、不快をその心地良さ(快)で退けてしまうという傾向が非常に多く見受けられる。

この、不快を快によって退けるの構図は結局の処、未だ二元(善悪争い)の領域内であって、
単純に、不快や陰側のマイナス面を低く観る(日に対して暗い月を。朝に対して暗い夜を)

悪を悪く下に観て、善を善く上に観る。神道を上に観て仏教を下に観る。何でもそうですが

一切は大神が創られ(許され)たもの以外は、一切存在(顕現)する事自体許されない。
その大神が創られた、その「陰と陽」とは全て【どちらも共に等しく尊い存在】です。

にも関わらず【無意識・潜在意識レベルで】そこに甲乙つけて観ているのが【真】の手前の段階。

御教えにも「裁く勿れ」が何度も出されて在りますが、それはその重要度が高いからで。

その裁いてしまう心自体がダメな事だからヤメろ(禁止・抑制・封じろ)の意味ではなくて、
誰にでもある、その裁く心の在る事をしっかりと認めたうえで、裁く心を卒して行かないと
イケない。(いつまでも裁き続けている状態だけがイケないよ)という御教えと捉えます。

それはもちろん、中身が獣に近ければ近いほど上記の様な上下視点も強く、逆に中身が神に
近づけば近づく程「平らなもの(共に等しく尊い)」と【心からそう感じる様になるもの】
だというのが真理であるし道理でもあると思います。(差が取れる=さとり)

注:決して【そう思おうとする事】が正解という意味ではないので誤解釈は避けて下さい。
「今の自分の状態・現状を知る事」こそが、一番の近道で、現状のありのままの自分の状態
が把握出来さえすれば、あとは勝手に自ずから「平らと感じる様になって行ける」の意です。

中身がどっちだとしても、万民共通事項として、快を心地よく感じるほうは既に誰にでも
出来ている事で、必然的にテーマとなってくるのが「不快」の存在、つまり陰側という事で。

その(陰の)退きを治して行くのが本来の退治だよ。という事を伝えたくて書いています。

今回はこれまでとします。みなさん、いつも読んでくれてどうもありがとう!

無題 佐藤 孝

2023/03/12 (Sun) 11:51:10

「赤子心」や「鬼退治」の、更に具体的な話に移る前に、先に心の重要性、
なぜ、心をそんなにも重要視しているのか?という事について。と、

体(物質)が主体であるこの現界に生きる事で勝手に誰もが例外なく染まって行く体主癖。

思い癖と言いますか、心本来の自然な動きに対して即座に対応(反応)している思考の働き、
その流れと言えばイイのかな、体主に寄った思考癖の傾向みたいな事を書こうと思います。


先ず始めに、心を重要視している事についてですが、たびたび体感・実感を伴う事の大切さ
についても書いてはいますが、実体験を通じながら一つひとつ得て行く、

その「体感・実感を伴った腹落ち(より深い理解)にまで至る」という事が、中身の成長
(霊の糧・霊の食事。よく咀嚼して消化する事で霊の身に成る・霊が太る)に繋がるからで、

おそらく本当の処の話で言えば、その本質は全て【魂】という事になるのだろうとは思います。

ただ、私自身の幽体離脱体験の時もそうでしたが、自分の霊身(霊体)は直接目で見て確認
出来たので、霊体が今の肉体と寸分違わず全く同じだという事実はハッキリ確認できても、
抜け出た先に、魂の存在自体を、実感として体感する事などは、全く微塵も叶わなかったし、

それこそ、霊視や霊的体験など、霊と関わる体験を数々積んでいる方(特殊ケース)の場合、
ひょっとしたら魂論のほうが伝わり易かったりするのかも知れないですが、

私自身、霊的体験はほとんど無いに等しいし、霊的能力など持たずに普通に生きている人の
方が圧倒的に多いと思う事からも、

【心が魂に一番近い、生きるうえで最も実感・体感の持てる部分】であるから、
そういった理由から【心の話】をメインで書いています。結果的には魂に通ずる話として。

現実に起きた体的な事実・起こった現象(体的面)の事実だけについて書くのであれば、
もっともっと端的に、短い文章で伝える事も可能だとは思いますが、霊の見えない部分を
誤解の少ないように、ちゃんと伝わり易く書こうと思えば、自然と文字数も多くなります。

自分の外側に答え(正解)を求める人にとっては、つまり何なの?的な、歯がゆい内容と
なっている事は百も承知なんですが、以前からも書いている通り、答え(正解)というのは、
【各々の、自分自身の中にしか在り得ないもの】ですから、

自分自身の心と向き合う(自身の内側に求める)という気・意識の無い方にとって、

私の書いている内容は、何の意味も為さない。という事だけは、ここに改めてハッキリと
書いておきたいと思います。答え(あなたにとっての正解)を書いている訳じゃないので。

それから、善と悪との二手に立て別けの基準も、鬼は外よろしく「内と外(霊主と体主)」
の二手に別れて行く事となる(霊主が善で体主が悪である事)も書いておきます。


続けます。


最終的に行き着く一番の本質、真因、その原点はもちろん魂という事になるのでしょうが。

実際に、体感・実感等伴える処は、やっぱり想念・心という事になるのではないでしょうか。

もっとも、魂(一霊四魂のそれぞれ)の働きが、そのまま心の働きとして顕れるもので、
完全に、魂=心という事ではないまでも、心が一番魂に近しい体感のできる直結の連動部
と捉えて差し支えないのでは?と思っています。

観音講座だったかな?(違ったかな?)に、図で示されたものが確かあったハズですけど、
一番中心の、魂の周りに心があって、その心の周りに精霊があって、その精霊の周りに肉体
の図(四重丸で示された図)その図を見たらより理解はし易いかと思います。

(写真とかアップ出来ずにすみません。私も一番さん同様、PC等の扱いなど苦手で^^;)

心が五であり火であり心臓で、精霊が六であり水であり肺で、肉体が七であり土であり胃。
それを〇に・でなぞらえれば、六と七が〇の体に相応(〇の線が七で中身の空間が六)で、
中心の・が五で霊となるのかな。

私の幽体離脱体験で云うと、七の体だけを置き去りに、抜け出た霊体の側が五と六の二重で
火と水(心と霊体の)二位一体だったと言えます。つまり死んだあとも(死なないけど笑)
霊体(精霊)に心はセットでくっついて来るという事。五と七(心と肉体)の二重はない。

もっとも、五は天に相当し七は地に相当する事からも、天と地は別れてる(二重✕)は納得。

六の霊体が間に入って三位一体となる事で初めて、天地間を結び地上(田)で天地経綸の
主体となって働くのが人に与えられた使命(人生)でもあるから、天の状態をそのまま
現界に顕して行けるように、精一杯に自分の本分を発揮して生きたいもんです。

あ。抜け出た霊体も正確に(魂論で)言えば二重ではなく魂と心と霊体の三位一体(三重)
が本当ですかね。(四重の〇の図を参考に。であればなおさら)

人によっては(又は二位一体とか三位一体の観方次第で)違って観えたりする性質もある
かと思うし、五六七とかで例える事で却ってややこしく感じてしまう方もおられるかも
知れません。(その場合は流し読み程度で軽く無視的な扱いとしてください^^;)

もうちょっとシンプルさを心掛けつつ、まとめてみたいと思います。

五六七のうち、どれが重要でどれは重要ではないというものじゃなく、全て一体で連動だし、
内から外、また外から内へと影響も一体と及ぶ訳ですけど【中心は何か】となった時には
やはり霊主体従が原則ですから、中心は霊であり火であり日でもある「心」という意味です。

【一切は「心」があって初めて】活動の力や体験から感じ得る事など可能になるという意味。

魂が中心となって色々と体験している。よりも、心が中心となって色々と体験している。
の方が、より実感が持てると思います。魂≒心と捉えた方が何かと腹落ち出来易い気がする。

一旦終わります。

霊視について 佐藤 孝

2023/03/05 (Sun) 11:27:12

今のその人にはそう見える必要がある。と、確か御教えにそんな記述があった様に記憶して
いますが、そのまんまその通りだと、私自身はそう思っています。

【今のその人にとって必要なもの】という理解です。当事者界隈に必要あって、を勿論含む。

今後のその人の人生にとって、今、それを霊視する事でその先(方向性)も変化しますよね。

実際に、私の人生に、もしあの幽体離脱体験が無かったとしたら、物事の捉え方や考え方
など、間違いなく今の感覚とは違ったものとなっていただろうと思います。

そもそもが、その体験に基づいて考えてみる、という事自体が一切出来ない訳ですから。


ですから、霊視した内容を聞いた別の人が、霊視内容が全て本当の事(正解)だと安易に
受け取ってしまう事に対しては、一考の余地ありだと思っていますし、
(その辺りかえ防さんは鵜呑みとは違う印象を受けるし私は何も問題ないと感じてますが)

私自身はいつでも、へぇ~、そんな事もあるんだぁ~くらいの、参考程度に留めておきます。

当然、実地に活かせそうだと判断できるもの(新たな価値観)は、今後の為に採用します。

鵜呑みは低い。という事は以前にも書いた事がありますが、地を這うヘビの鵜呑みもそう
だし、鵜呑みの鵜の字が弟の鳥と出来ていて、次位の位を表している事などからも云々と。

ただ、いくら鵜呑みに気を付けていたとしても、無意識に鵜呑みしてしまうのも仕方ない
と云うよりか、それは却ってある程度必要あっての範疇(導きの一端)かな、という気も
するので、結局は自然のままがベストで、あとは本人次第(原点は自分)という感覚です。

自分だって過去に色々と失敗したり間違ったり、道を大きく外して来たりなどのクズ体験、
その数々があるからこそ今の状態へと進んで来れてる訳だしな、なんて思うとなおさらね。

やっぱり重要なのは。分峠となるのは「心に誠の有る無し」と、「かえりみる心」を失って
いるかいないか。って処に結局集約されるんじゃないかな、ってのは凄く実感してるなぁ。

誠の力は世を救う。ってあるけど、少なくとも誠の力が自分を救うって事は間違いないよね。


書きたいと思った事から書いてる都合上(笑)鬼退治の話から段々逸れてきちゃったので、

また次回は「心の重要性」と元の「赤子心」の話に戻そうと思います^^;

両親と両神。そして自分。 佐藤 孝

2023/03/05 (Sun) 10:50:08

私的には、神様は魂の親様(自分にとって肉体の両親とは別の、霊の両親)でもあるので、

観音の救いが母親の愛であるのに対し、対極のメシヤ(国常立)の救いが父親の愛と重なり。

ちょうど子供の赤子から幼少期、少年期と、ずっとそばに寄り添い何かと世話をやく母親が、
この子が辛いだろうから、可哀想だからと、現世利益を与えてはサポートをするように。

また、子供がある程度育ち成人してからは、母親の元を離れ社会に出て自力で歩み出せば
今度は一転、父親主導の元【子の力を信じ黙して見守り】母親にも余計な手出しは控えさせ、

その子が何か難関にぶち当たり、助け(救い)を求めに来た際には、言葉少なに急所の助言
のみ与え。そして再び信じて見守って行く。という、その

子の自力を信じて見守る(手を出さない厳しい)スタンスが、ちょうど親という漢字の
「木の上に立って見守る」という文字の創りとも重なって観えます。

大人になって助けを求めて来た際に、父親に隠れて母がこっそり陰で子に現世利益を与え。
その一部始終を知る父親は見て見ぬふり(母を見過ごす)そんなイメージも伴いますが(笑)

最近では親のスタンスも随分と変化してきている様に思いますけど、
古来からの、日本本来の両親の在り方に、観音(母)と国常立(父)の両神の大愛の働きが、
そのまま重なります。

(因みに私は、6月15日にお言葉が無かった顕れも、厳しいメシヤ=父親の型と捉えてます。)


今の時期が夜明けの晩である事からも、信仰も、いよいよ中身の成長・成人の段階を迎え、
親の元を離れて自分自身の力で歩み出す時期(自立信仰の時期)に入っていると思いますが、

親の元を離れたからと言って、体的には離れるものの、親の事を忘れてしまう訳ではなく
原点である親の教えは、しっかりと胸に刻み、自分自身の判断にて進む流れは、今すでに
親元離れ社会に出て働いてる人であれば、誰もが体験から実感する事ではないでしょうか。

とにかく大事な事は、何事に於いても【両面揃う事】つまり陰と陽との両極を合わせて結ぶ
という事ですが、半分と半分との真逆と別れている事からも【半分だけでは片手落ち】で。

優しさも厳しさも【両面】兼ね備える国常立の絶対善(真)の御神意を覚る処を目指します。

左右両方の手と手を合わせてこそ初めて成り立つ、感謝や祈りの際の【合掌】という型も、
それ自体、幸せの成る型と捉えて良いのだろうと思います。

私は、今を含む今後の主流は国常立(父)主導の流れに入っていると受け止めていますので、
信仰も【自立】の段階を迎えている、という事は以前からも書いて来ている通りです。

何事も両面揃う事。とも書いていますが、これはホントに何事に於いてもそうだよなぁ~と、
心からそう実感するので大事な事として出していますが他力信仰についても例外ではなく、
自力信仰の大切さ(これまでの逆面)として【改心】の自力信仰についても書いています。

両面合わせて結ぶ。五足す五が「十」と出来ている事や手の指が五本ずつ左右にある事など。
あげ出せばキリがないくらい、目に見える形として既に世に出ているもの
(証を以て覚る・証覚の為に用意されてある)外側の現象(体的な型・型霊)は

山ほどありますが、神様は型で知らせる(神様からのメッセージ)の、その部分を
どれだけ受け取る(感じ取る)事ができるかどうかも、器の段階により様々かと思います。

今の私の段階では、全てが繋がりハマりきった(全てを見通せる)訳じゃないけど、今後
益々、今よりも更に色々が繋がり、ちょうどパズルのピースが一つひとつハマって行く様に、
更に次々と合点が行ける様にと、昔から仕組みが創られ用意されてある、というこの大愛は、

これまでの体験、その時々に色々と繋がって合点が行く歓喜の瞬間からも実感しています。

一切の仕組みに神の偉大さを観る、という感覚が今の自分に一番近しい神観な気がする。

神は型で知らせる。という意味も、神は「隠れ身」で目で見て確認できる存在ではないので
目に見える型(既に起きた現象)や人の言葉に神からのメッセージが込められているという
その神の働き・実動を、皆さんがどれくらい受け取れているのかは、私には分かりかねます。

普通とは違う、特殊ケースの霊視(神仏が見える事)について。もちろん私にはその体験は
一度もありませんけど、霊視体験についての話は時々ちらほら聞くし、また、ここ最近でも

かえ防さんの報告の例などにも、いくつか出ているみたいですし。という事もあり、
今の私が思う、神仏を霊視する事についても少し考えを書いてみたいと思います。

陰陽(両神) 佐藤 孝

2023/03/05 (Sun) 09:54:55

なら良かったです!(嬉しい限りです)♪

さて、早速本題に入らせて頂きたいと思います。


浄霊の他力で薬毒は取れても、最奥にある原罪は自力でないと取れない。

これは、自力も他力も【両方共に必要】だと思っているので、どちらか一方を否定する
意味の話ではありません。そこは、くれぐれも誤解の無い様にお願いします。

陽も陰も。火も水も。善も悪も。何でもそうですが、両方を結ぶから真の神(十)となります。

仏教(釈迦・七)の【自力本願】と、阿弥陀(六)の【他力本願】との違い。と書いたら、
私の云わんとしている事もより伝わりやすいでしょうか。

(グーグルで、自力と他力について検索してもらえたら、よりハッキリ伝わるかも、です。)


信仰も、いつまでも神様にぶら下がり続けていてはいけない、という様な言葉を耳にした
機会が多少なりともあるのでは?ないかと思いますが、私は、どちらでも自由だと思います。

他力の信仰から、自分の意志と力で歩んで行く信仰へと入って行く道が、無理のない順序で
【自然本来の流れ】であって、その自力の道を歩む事が【本当の厳しさ】であると。
そんな風に思ってはいますが、とにかく自分の心に無理があるのでは本末転倒なので、

無理のない事(抵抗のない感覚)を心掛ける必要はあるし、とても大切な事と思います。



御教えにも、原罪(三千年の罪穢れ)が誰にでもある事や、根本は三千年の罪穢れなどと
ありますが、私が「誰にでも取り組む事の出来る信仰」の話として、自力で歩む「改心」の
話を書いている意味も、天国入りの道は「天神様の細道」であると実感・痛感している為です。

以前にも少しだけ、依存で通れるような生易しい道ではない、という事は出しています。

この、両面必要だという事は御教えにも散々(逆が)書かれていますが、明主様の凄いのは、
御教えだけでなく、その生涯に於いて、人類が歩むべき姿を全部型で示されてある処です。

晩年には観音から180度の転換(メシヤ降誕(仮))・審判の型など、転換後の厳しい裏面も
ちゃんと型をもって示されている。

観音の救いと、その真逆であり格上ともなる国常立の救いの型と、その【両面】を示された。

メシヤ(国常立)としての働きを充分に尽くせないとの感から、元の明主様に戻られて後の
御昇天となりましたが、ネット上で見掛ける情報に、周りの者達が明主様のご神格を覚れて
いなかった「せい」で論。(6月15日にお言葉が無かった事の理由などの話)がありますが、

私には全然そうは思えていなくて。例え周りの者達がどんな状態にあったとしても、経綸上
時期的に、審判のリミットを迎えてのそれ(メシヤの厳しい働き主導で推し進める事が必要)
であったのだとしたら人間側の都合など一切関係ないハズ(神主導が本当では)と思えます。

私にとって、少々不思議に感じるのは、充分に尽くせない感がある、と仰っておられる
明主様(自分が信仰する神様直々)の御言葉を、そのまま素直に額面通りに戴く感じとは
ならない感覚。人間都合のネジった受け取り?勝手な解釈で合点する感じと言うのかな。

さらに、今の世の中の現状を見てみても、世界中の殆どの人達が、明主様を救世主などとは
思ってもいない実際の現実など。(近所の人達にどう思うか聴いて回ればハッキリする事)

明主様を熱心に「高く崇めようとする信仰意識」から、そうなりがちな気持ちは勿論
解らなくもないのですが、信仰はあくまで冷静に、という事でもあるし、それ以前に
明主様御自身が「救世主か否かは、世界中の人達の判断に委ねたい」とする様な?

御自分から救世主だとするのではなくて、周りの人達の誰もが認めるような状況?世論を
重んじてもらいたい。という様な感じで、確か告白されてた?そんな願い(御本心)までも
(私的には、ですけど)ハッキリと感じ取れる、という事についてもそうだし、

それぞれ、各々が率直に感じるままの、その想いを尊重しておられた心の広い御様子まで、
鮮明に溢れ出ている、と私はそんな感じの合点の納得で受け取らせて戴いていますけど。

これは勿論、明主様が救世主であった事で間違いないと判るからこそ、そう思う訳でして。
この信じる力に若干でも甘さが残っていたりすると、どうしても、その分を実際に証明して
行きたいとか、周りに信じて欲しいとか、補助的な想いが補おうとするものだと思います。

本当に判っていれば本物である事を証明しようとする必要など、全く感じないものです。

どこまで行っても判らない人には判れない(霊層界の上下ある以上、致し方ない)ものだし
また、無理に判らせようとする必要すらない(御魂相応)と、私はそんな風に思っています。

すみません、また少し話がそれてきました。(書いてると次々キリもなく出てくるから(笑))

一旦終わります。

Re: 改心 - かえ坊

2023/03/05 (Sun) 01:56:01

佐藤さん

 めちゃくちゃ参考になりました!!ありがとうございます。

 私は確かに、自分がこう言われたら嫌だろうなという気持ちが強くて言えない事があり、ごまかしていましたね。佐藤さんの文章読ませていただいて、自分のその心の状態に気づかせていただきました。

 とっても具体的体験談、すごくわかりやすかったです!!

 よく關さんもセミナーで自分の思いを押し込めてると曇って病気になるから、言いたいこと言った方が良いし、それは人に嫌われたくないから??って質問されて、好かれてもないのに??ていう返しがあるのですが、なかなか言いたいこと言えないときがありました(前よりは言えるようになりましたが...、)

 でも、佐藤さんの体験談、すごく参考になりました。相手の意見を冷静に聞いて受け止めて、今度は自分の番、という感覚ですね。相手と自分と50:50ですね。

ありがとうございます!!

無題 佐藤 孝

2023/03/04 (Sat) 08:39:53

かえ防さん

返し遅くなってすみません、いつも読んでくれてありがとう♪
(あんなに長々しいのを(笑))

>それには、相手の事を気にしせずに意見をいってしまうことですね。

きっとその感じなら溜め込まずに言えそうな感覚なんだろうと思います。

私はかえ防さん自身ではないから(当たり前の事ですけど(笑))、かえ防さんが、それを
どんな感覚をもって言っているのか、を正確に把握しきる事は出来ませんけど、

ちょっと気になったのは「いってしまう」という表現でした。

「~してしまう」という言葉を、私自身が使う場合には、それを悪い事と想いながらやろう
とする感覚なので、もしそれに近い感覚としたらそこには無理がある様な気がするし、また、

勢いをもって言う(え~い!言ってしまえ~っ!)的な意味の、純粋に「強い勢い」を表す
意味なら、確かに普段やり慣れない事をする時には多少の勢いは必要かも、と思えるから
そこには余り無理を感じる事もなく、そんな感じになるのかもな、と理解も及べる感じです。

かえ防さんは、きっと普段から相手の事を気に掛けるという事を優先される方なのかな?
と思いますが、気配りとか気遣いとか配慮とか、それはそれで尊い想いからと思うので、
そういう想いは無理に崩す必要も無い(大切にしたら善い想い)と思っていますけど、

これを言えば相手がきっとこんな風に思うだろう。という、自分の主観で予測する意味の
「相手の事を気にする」だとしたら、そこには大きな誤解(思い込み)があると思います。

相手側が何かを言われた時に、それについてどう思うのか。は本当に人それぞれで、別々
の感覚だったりするのが実際だから、自分で勝手に見立てているそういった自分予測とは、
【実は曖昧なものである】という事実は、ちゃんと認識しておく必要があるように思うし、

もしもそれがある事(曖昧さに気を奪われて)で、自分の意見を言いづらいのは勿体ない事
だと思うのと。でも逆にその「見立て」自体は自分自身を良く知る手掛かり、にはなります。

自分がもしこれを言われたとしたらこんな風に思う、というソレ(こっちはほぼ確定事項)を、
そのまんま相手に重ね合わせて(思考の投影・自分の思考が鏡に反映)見立てているのが
自分予測なので。つまり自分だったらイヤだと感じる(理由)から言えなかったりする。

見立てと実際とのズレを経験すれば、その回数も重ねるごとに、曖昧さでの縛りも段々と
消えて行き、それと同時に自分自身の状態も段々と知って(ハッキリして)行くと少しづつ
曖昧な夢も覚めて行くし(覚醒)、又それに相応して心の自由度も増して行くものです。

例えば私の場合ですが、そういった自分自身の状態を良く知る事となる「内観(感)」
(鏡合わせでの取組みや改心の積み重ねなど続けて来ている事)で、自分自身を段々と知り。

それに伴い自分の中の、心の軸もわりと安定して静かで、そのブレ幅もどんどん無くなって
きている事からも、その結果として(ここ数年の、日常での在り方の一端を書いてみます)

例え人からどんな事を言われたとしても、それをイヤだとか、被害を受けるような感覚で
捉える・感じ取る事が出来なくなってきているので、自分が言いたい事は、いつでも何でも
自分の意のまま思うままに言う事ができます。何の無理も躊躇もなく自然な感じで。

例えば、超強引な?ゴリ押し的な要望が来たとしても、断りたければ遠慮なく断れるので、
特にイヤだとは感じないです。あぁ、そんなにもやって欲しいと思ってるんだなぁ~って
相手のそういう想いは充分に理解して、しっかりと完全に受け止める事のできる感覚です。

その想いをちゃんと受け取ったうえで、今度は自分がその意に沿ってあげたいのか否か。
(勿論、ほんの少しの無理も絶対にありません。心からしてあげたいと思うか否かの二択)
その自分のありのままの想いを伝えるだけだし、相手の要望の次は自分の答えの番だから、

意に沿えなくてごめんなさいね。というその想いを自然にそのまま伝える感じとなるので、
どんな人でも100%私の想いを理解してくれますね。(思いやりのある良い人ばかりです)

仕事とかでも、たまには二度三度押され続ける事とかも(極稀に)あったりしますけど、
やる事はいつでも同じ(内感)なので、自分の心(本音)が伴わない限りは断り続けます。
(心が主で其の一。主に基づく従の順が言動の体で本来の順序=心言行が整った三位合一)

どんな人の場合でも同じ事(自分の心の確認)をするだけで、その本音をそのまま出すだけ
ですけど、みんないつでも必ず理解してくれて、結果は必ず納得して引いてくれています。

何度も何度もゴリ押しで来るような場合に、押し強ぇ~なぁ~この人(笑)みたいな事は
もちろん同時に内心で思ってたりはしますよ(笑)でも全然、全くもってイヤじゃない。

自分だって、それくらい強くお願いしたくなる様な気持ち(心)の時って、ありますもんね。
(表に顕す形も人により様々だし、人って本当に色々で、その時々によっても様々です)

だから、と言うか思うのは、もっと本音のままに自然のままに、形の方に気を奪われて
そっちを優先する(体主)ではなく、例えどんな時にでも、みんなもっともっと好きに自由に
やったらいい。って、マジでホントの本当に心の底からそう思います。

何か参考になるところがあれば嬉しいです^^


白ぽっちさん

いつも、どうもありがとう!

目の浄化中に長文はなおさらヘビーかなと思うし、身体にならって無理のないところで

それこそ心のままに、で今後もよろしくです。(くれぐれもご自愛ください♪)

Re: 改心 - 白ぽっち

2023/03/03 (Fri) 15:15:43

長文なので、読むかどうかはその時次第だけど、
読めばたいてい『なるほど~』という感想になります。

一つの事を深堀している人の話は勉強になりますね。

Re: 改心 - かえ坊

2023/02/27 (Mon) 23:14:09

佐藤さん

改心、興味深く読ませていただきました。深い内容ですべてを理解できてはないのですが、参考になりました!

私は言われてみればため込むタイプです。ため込むと爆発、確かに!!ため込まないようにしようと思います。

それには、相手の事を気にしせずに意見をいってしまうことですね。

あと、鬼退治が、鬼(国常立尊)が退くのを治すで、お出しする、っていうのがなるほど!と思いました。

ありがとうございました!

続きです。 佐藤 孝

2023/02/26 (Sun) 10:53:07

この見える「汚れ」を封じようとする(退)が医学側の「体主」にあたるという意味で書いています。

汚れを封じ抑え続ける限り、根本的真の解決には至らないのが自然の摂理と思います。
もちろん自然の(浄化の)流れに逆行するのが抑え・封じ【退】という意味でもあります。

夜の時代には薬で抑え・封じる(体主)で良かったものが、今は既に夜明けの晩で、今後
益々火素の増量と共に逆側(霊主)へと転じる流れなので、もちろん抑え・封じるの【退】も
一転【進(出)】を迎える事となり、排泄噴出の後推しとなる現象も増えて来ると思います。

抑えには、いつか必ず限界がやってくるもの(自然)だし、そもそも抑えるというその力
自体が、無理やり逆方向へ圧力を加える事だし、車のエンジン(原理)も同様に、抑えの
圧縮力が爆発力の素だから、圧縮の最小なれば爆発も最小(小出しの軽い浄化)で済む。


普段から想いを溜め込むクセのある人ほど、時にキレると手が付けられない位の大爆発を
見せたりするも、全く同じ原理に基づくと思います。(頻繁に出せる様なら大きくならない)

頻繁にイライラする人は頻繁に溜め込む(常に出さない様にと、抑え意識の常中にある)人
だと思います。まぁ要するに抑えに抑えた(=薬)結果は却って増大・悪化するの意味です。

もっとも、その大爆発についても、それも決して悪い事という意味ではなくて、ただ自然の
摂理的に、そのように出来ている、という仕組みの話(原理的)の意味であって、

例えばそれを人の人生になぞらえてみた場合でも、最初は親の教え(戒律)に基づいて
ある程度自分を「抑制」しながらで進み、またある程度中身が成長して来れば噴出(反抗期)
を迎え大人になって行く。というその流れ自体が自然であるという事からも、

夜の時代にはある程度の抑え(戒律・薬)の必要だった流れと同様に、抑えがベースにある
事自体は、それは何もおかしな事じゃないし、決して変でもないしダメじゃなくてむしろ善。

以前にも少し書いた事がありましたが、全てではないものの、大きく別けて関東人と関西人。
どちらかと言うと関東のほうが想いを仕舞う傾向にあり、関西のほうがまんま出す傾向に
ある様なイメージを私は持っていますが【腹の中】は関西人のほうが比較的綺麗かな?と。

ちなみに私は埼玉に住んでますから(生まれは群馬だけど物心ついた頃からずっと埼玉)
バリバリの関東人です(笑)だけど中身は関西寄り?(想いを溜め込むのが苦手なタイプ)
なので、腹の中に汚物を残さない分、いつでもわりとスッキリ爽快な腹で生きてます^^


汚れの排出もそうですが、大乗の視点を言葉にして出す場というのも、慎重に選ばないと
一般の人の視点(小乗)とは全く真逆の(一般から見た悪・間違い事)を多く言う事となるので、

その結果は、何かと色々な問題も生じやすい為に私は、こういう話に理解の及べるであろう
可能性を観ない場では、本当に本心から自分が普段思い考えている話を出す事はしません。
出しても無駄に終わるのがハッキリ判っていたら、間違っても出したいと思えませんから。

これを仕舞っておく事は、汚物ではないだけに、全く何の支障も無いどころか本音のままに
自分の意のままに(心言行一致の一つ心で)生きる自然体に繋がっている事なので却って快適です。

もちろん抑え様とする感覚など皆無なのと、逆にチャンスさえあれば遠慮なく出す準備は
常にあるので、驕りたかぶる感覚ではなく、能ある鷹は爪を隠す?的な「ゆとり」の様な感覚でいます。

普段は、今の世間の常識にある程度合わせながらも自分の想いも封じずに生きているので、
おそらく誰も私が熱心な信仰者である事(中身)は見抜けないであろうと思います。それこそ、人は
見た目だけで判断する体主勢がまだ圧倒的に多い世ですから。ダメ目に見られてるだろうと思う。

どちらかと言えば、世間(周り)からの評価は、印象悪くもないけど中身はダメそうな人。
的な感じかな?と思います。「ナマケモノ」とか「たれぱんだ」みたいな感じが自分の素の
状態(中身)だから。内心笑われていたり見下されていたりする機会は多いんじゃないかな。

ある程度は文章とかからも伝わるのでは?と思いますけど、基本のんびりタイプの何事も
スローペースだし、決してテキパキと物事をこなせるタイプの出来る人ではないので(笑)

あ。また話が随分と脱線してしまった^^;


心を主とする内感(又は外感)の【心の状態を感じ取る感覚】の薄いままだと、肝心の
根本である心の方を曖昧なままに進む事となるので、結局根本的な解消までには至れない。

心の話を長々と、くどい様にと感じられるかも知れませんが、これ位でないと相応しない位
体主癖って強固なもんだし、とても肝心な部分と思うからこその、こんな感じ(笑)です。

もう少し、そんなくどさを含みつつの話になるかと思っていますので、もし、少しでもウザく目障り的に
感じる様な感覚などあったら、読んでいてもほぼほぼ意味がないので、その感覚に素直に従い
この「改心」枠から離れる事をおススメします。(心のままに=霊体一致の自然体が基本)

脱線した分また余計長くなってきちゃってるし(笑)今日はこれで終わって、また次回とします!

鬼胎児 佐藤 孝

2023/02/26 (Sun) 09:51:44

「改心」は、心の汚れ(垢)に絡み付く「邪」を消化(昇華)していく為の内観(感)作業。
自分の中心に在る鬼を見つけて【鬼退治】を成し遂げて行く取組み(御神業)ですが、

鬼と言えば豆撒きの的(対象)である事からも、鬼門の祟り神(つまり艮の金神)の事で。
その鬼を【退治】する事の本来の意味は【退】きを【治】す=お出まし頂く事と思います。

童話「ももたろう」のイメージで叩きのめす(退かせる)のとは丁度真逆の意味が本来。

原罪の東洋バージョン【国常立尊御隠退の契機】である八百萬の神々(正神に対する邪神達)
の【心持ち】が悪かった事を指して【三千年の罪穢れ】とされてあるものですが、体的な
イメージに囚われれば、皆でこぞって金神を押し込めるその姿・様のみ思い描きそうですが

肝心な事は、体的に捉えるのみではなくて、霊的(精神的・内面的)つまり目には見えない
心の動きを捉えてみる事で、それに近しい「思い癖」等自分自身の中にもありそうか否か
そこを重ね合わせてみる事で「改心」にもそれを活かせるものと思います。

また、国常立の御神意(絶対善の心の在り方)を感じようとしてみる事も同様に思います。

絶対善の神が負ける道理などあるハズもない中で【経綸上必要な事】として、世論(各々
の想い)を尊重し、曲がり(戒律に背く想い)と知りつつも隠退(=戒律を解く)を決意。

外側を退け・従わせよう等、戒律で押し縛るのでなく、自発の尊重をもって炒り豆にも花が
咲く時節を辛抱強く待たれるというその心の在り方など、とても参考となるように思うし、
私は、自分の心にも是非そういう部分を活かし(根付かせ)て生きたいと強く惹かれました。

とにかく、改心は心が一段善い進化(変化)の実感を伴うもので「心の事」であるだけに
何はさておき「心」に意識が向かない事には、そうたやすく改善されて行くものではなくて。

また、自分自身でハッキリと改善が実感できた感覚を伴うからこそ歓喜(神気)が湧くし、
またそれに伴って自信も増すし。と、早い話が、その嬉しさにハマる事になるんですが(笑)
回数を重ねる毎にコツも段々と掴んで行けるというのは、何事に於いても同じと思います。


体(外郭・見た目)に囚われると本質を見失い易いという事も何度か書いてきましたが、
ある意味やむを得ないという位、物事を何でも体的見た目ばかり(体主)に意識が傾くのも
物質界(現界)に長く生きれば生きるほど、それは極々普通の事なんだろうと思います。

また一面それを指して邪の働き・邪の作用と思いますが(意識を本質から遠ざける作用の意)
本質は霊にあって内にあり。対して、現象は体であり外にある。両方大切の霊五体五が本当
ですが、どこ迄行っても【主】は霊で内。一切の原点、本質は中身の奥(中心)にあります。


鬼は【外】だけに、自身の外側に鬼を見る事にのみ専念させようとする力を反転させれば
鬼は【内】へとひっくり返る(転換)で、邪の作用も正の作用と反転、内側の魂(心の中)
に鬼の存在を観るというものです。

確か大本の豆撒きは【鬼は内】だったハズですが【鬼は外】の豆撒きが間違いと知り(知識)、
体的な、行事としての豆撒き等終わりに出来ても【心の豆撒き】が中々終わらないという
のも、目に見える体的改「体」と、目には見えない内的改「心」の前者にばかり偏るがゆえ。

体に重きを置くか、それとも心に重きを置くか(体主or霊主)の注目部の違いのみですが、
一旦体へと偏った意識に修正を掛けるには、逆サイドへ大きく振り切ってみるのが最短で。
それが中心を割り出せる処にも繋がるかと思いますが、修正どうこう以前の話だとしても、

やっぱり霊が主で体が従である以上(本来の流れに沿う)のが「順調」のカギと思います。

人も万事、霊(心)に基づき、それに付随で動く(体)の順序の中で生かされてはいるけど。

何かの機会に触れる度に、初めから元々内在し続けてある、完全昇華にまで至っていない
「別心」の存在が、ちらほら出ては(二つ心・どっちも自分の心)色々と想い煩いの種となる。

初発の心が曖昧であればこそ、言動後に自己嫌悪感や自己に対する批判的・否定的な心など
そのもう一つの別心の存在に自分自身が豆を撒かれる事になる(落ち込み要素)と思います。

それが良いとか悪いとかでなく、心にブレ幅・その要素ある限り、そういう流れで振られ
ながら、段々と心もブレない軸柱と定まり立ち上がる流れ(二本から一本へ)だと思うから、
誰もが辿る、そういった流れ(仕組み)自体は何も変じゃないし間違ってはいないんですが。

目に見える動きの方に重きを置く意識が、体の方を「先に優先的に」修正する事によって、
(見た目的な改善確認・視認のし易さも手伝い)それで大丈夫という事にしてしまいがち。

ちょうど薬によって体が治った事実を視認して、根本解決に至ったと誤認するのと同様。
実際は中が汚いままでも、形さえ綺麗なら大丈夫になったと思い込める実際の例えです。

浄化の過程(見た目の汚さ)を避けながら綺麗になろうとするには【無理】がある道理です。
繰り返します。【見た目の汚さを避けては中身が綺麗になれない道理】です。
中身が綺麗になる過程で、見た目の汚さ(排泄)を「伴う」のが自然(浄化の原理)です。

汚物が排泄となって良かったね♪というスタンスが、普通の一般とは違う救世教信者の
あり方だと思いますが、この浄化の原理は中々小乗視点からでは理解され難いですよね。
その汚物が出る事を異常と捉え、出ない様に何とか排出を抑えようとするのが対症療法。

基本、出るもの全て良しですが、同時に出る因が内側の霊に在る事を知り、内の因の解消が
繰り返しの浄化も小さくし終わらせていく流れが本当の治療である事は御存知の通りです。

要するに「汚物の排出」は、内から綺麗になって行く為には欠かせない(必須)という事で
これは、暴言を吐いたり、愚痴をこぼしたり、不満を言う事など(=汚物)も同様です。

但し、根本解決となる為に必要な、内側の霊(心)を改善する(己をかえりみる)をせずのまま、
排泄だけし続けるほど罪深いものも無い(益々罪を負う)と思えるので、諸刃の剣じゃないですが、
排出するにはそれなりの覚悟と場の選び(思慮深さ)は必要だと思います。

「排泄の覚悟と場の選び」を身体の浄化の流れで例えてみれば、浄化(排泄)が済んだ後に、
再び薬を飲み続ける(元がヤマらない=かえりみれない)様なもんなのと、汚物排泄の場
を選ばず、のべつ幕なしじゃあ、ただ汚れを撒き散らかすだけの「汚し専門」となっちゃう。

余計な罪(世間に汚れを撒き散らかす)を重ねない為にも、一番小さく安全に実践出来る場
(最小単位)は「家庭」という事になるかと思います。先ずは自分の足元(家庭)から。

一旦終わります。

Re: 改心 一番

2023/02/12 (Sun) 13:09:28

いいですね。

「悪憎む心が悪いぞ、善憎むよりもなお悪い。」また、「嫌われる勇気」これですね。

実行、本当に勇気がいります。

続きです。 佐藤 孝

2023/02/12 (Sun) 11:49:12

赤子心には争い(敵対)が無い(故に争いようがない)という意味の【絶対】があり。
それを型で見てみると、巴紋にある「一つ巴」を参照してもらえば更に合点は行くと思えますが、
二つ巴・三つ巴の対立・分裂の型とは異なって「一つ巴」=「胎児の型」と出来てます。

赤子繋がり。しかも「胎児」と桃太郎の鬼「退治」の「たいじ」繋がりまで含まれてる。
魂の字に鬼が入っている事は皆さん承知かも知れませんが一応添えておきたいと思います。

また型ついでに、先回の「器の完成」で少し触れた「大の型」についても少し私的な考えを。

元気な子が大の字姿で寝る、その「元気」も勿論なんですが、大の字を分解すると「一人」
と出来ています。全てを自分一人に帰結させ、元気に活き活きと。伸び伸びと自由に。
そんな意味が含まれているかなぁ、って。ザックリとですがそんな感じの認識です。

「田の字」については四方(八方)に広がる、実地の為せる「大地」の意味と捉えます。


話を元の「赤子心」に戻します。赤子心の話だし、もちろん心の話の意味で書いてますが

要するに善悪二元の争いから卒する処の【絶対善の真】が【赤子心】にはあるという事です。


御教えにも【善と悪との一段上に真がある】と、二元の善悪の一段上にある善悪不二の領域、
【対の消えた後に残る】絶対善の真について、その位置づけについても説かれてありますが。

誰の心にも元々在った赤子心を再び取り戻して立て直す為の、自分の中にある「鬼退治」は、
【その気にさえ成れれば「誰にでも出来る」】もので

そこに絶望の闇(病み)とは反対の、希望の光を観ています。

どうして誰にでも出来ると言えるのか。理由は、元々誰の中にも必ずあった心だからです。
故に元還りとか取り戻すの表現が相応しいのだろうと思っています。

おぎゃあと産まれて物心つく頃まで、誰もが必ず純粋無垢な状態からスタートしています。
純粋無垢の文字通り穢れなき純粋さと、心に垢の無い無垢の状態(天然美)から始まってる。

物質世界に生きる都合上、どうしたって物心つく辺りを境として段々と汚れて行きますが、
悪想念が自身の霊のみならず霊界をも曇らせ、何かとこの世を乱す因創りへ加担となって
しまう事の不本意は信仰者の誰もが思い煩う課題(自分の想念に手を焼くもの)と思うし、

もし可能なもんなら曇りを晴らして行く側の御役にお使い頂きたいと、そう心から願う
皆さんであろう事と思います。

一人でも多くの方が、自分の心に素直に正直に、心の赴くままの自然体で生きられるように
本来の使命を全う出来る事を願いつつ、私自身もまだ途中過程ではありますが、これまでに
得てきた事の中から何か少しでも善いきっかけ、参考となれるものがあればと思います。

本日は以上です。次回はもう少し具体的に鬼退治について書いてみたいと思ってます。
みなさん、いつもどうもありがとう♪

赤子心 佐藤 孝

2023/02/12 (Sun) 11:01:13

二つ目に必要と思っているのは【赤子心】に還る事、その純粋さを取り戻す事、です。

赤子心は、争い(責め咎め)・慢心(驕りたかぶり)などとは一切無縁の心でもあるし、
純粋無垢であり邪の曲がりとはちょうど真逆に位置する天然・自然そのものと思います。

天地の律法・その法則に従って生きるという事は、自然に倣えという事とも繋がるように、
御神意(自然に還そうとする流れ・浄化の原理)の中に生かされるという事だと思うので、

人の心も自然に沿った(自然と湧いた)その心のままに生きれる(体現して行ける)ように
なって行く事が、本来の、自然の姿に立ち還るという事なんだろうと思う。

人の本質、その原点に立ち還るという意味にもなるかな。何事に於いても初心忘るべからず
ですが、事ある毎に赤子心ならばとイメージしてみるのも良いかも知れません。生命の初発、
その原点だけに、その時々の「今」を生きれる事とも繋がってくるのではないかなぁ、と。


赤子心は、まだ争い事とは無縁である(外側に敵を創り出さない)事からも、文字通り
【無敵の心】であるとも思っていますが、最勝妙如来(桃太郎)が必ず勝つというのも、
戦う心が無いから決して負ける事がない=赤子心の様な内面の状態を示す意味なのかなぁ。

なんて事はよく思います。付随してそもそも戦わなければ負ける事もないしな、とかも(笑)

その、向かう所敵無しの「最強で無敵の赤子心」を思い返す(参考にする)事が、自分の
中に在る善悪の争いを終焉に導くと思うし、余計な力の浮き彫りにもなるように思います。


例えば「悪を憎む心」、またその「執着心」だったりなど、赤子心との比較によってわりと
鮮明に違い(差)は浮き出すものと思います。そればかりではなく他にも何かと色々と。

神示に「悪憎む心が悪ぞ、善憎むよりなお悪い」とありますが、これなども善人への改心を
促す一文と思ってます。何かを憎む時って心に重さを伴う(悪想念は常に自分持ちだ)しね。

ただ、誤解の無いよう特に補足しておきたいと思いますが、何らかのトラブルの渦中にある
【当事者】が相手側を憎んだりする事などは極自然と思うし、その善悪の衝突が磨きの一環
だと思うので、そういった【直接の機会】はちゃんと活かしきる事の方が重要だと思っています。

日常という本番(リアル)に活かしきれないと(想いを仕舞い込んだままで居ると)
磨きの一環の仕組み、その構図の中での「一人の駒」として与えられている使命・その役割を、
自ら放棄する(一つの重要な役割として、その使命を果たせない)事となってしまう事の残念が一つと、

自分の想いを相手側にちゃんと伝える。という事を避ける結果は、相手の事を嫌いになる
確率を大幅にアップさせる効果と、元々あった悪想念に更に上乗せで重さを追加させる
ちょうど下痢を下痢止めで抑える事と似たような効果があるように思える事の残念が一つ。

それから、実際にちゃんと使命・役割を果たす事で、実際に起きた事実を元として、後から
それら一連を「かえりみる」機会を失ってしまう事(うやむやになりがち)の残念が一つ。
と、色々と残念だらけの結果を、自らの意思によって生み出す事になってしまうと思います。

何より、自分の想いをちゃんと相手に伝える事と、相手の想いをしっかり理解・把握しよう
とする事の尊さは、人に与えられている特権と思うし(動物には無い)、最後までちゃんと
行き着けると、本当にお互いスッキリ晴ればれ出来るもので(毎回全部とは行かないまでも)

足元確認しながら一歩いっぽ着実に、実際の現実をちゃんと生きる。
その時々に湧く自分の想いを最大限に大切に、その想いをちゃんと表現・体現して行く事
(=自分を発揮する事)って凄く大事な事、自然そのもので尊い事だと思います。

そういう意味でも「悪憎む心」とは、イメージとか思考だけの仮想で消化(昇華)できる
ものではなく、もちろん改心についてもそうですが、実地にあたる事で実体験から得る事
によって導かれている(又、半面、自ら向き合い目指す・志す)性質のものであって、

その為(体験から得て行く、感得して行く為)に生かされていると言って良いと思います。

仕事でも何でもそうですよね。資格を持っていた処で実地がこなせない者は役に立てない。
信仰もまた、全く同じ事なんだと思います。実地から得たものは必ず自分の身になるし、
身になったお宝は、人にいくら与えても無くならないし、盗まれて消えてしまう事もない。


だから先ずは何と言っても夫婦・家庭(足元)から取り組む。実地にあたる(真向かう)事が
誰にとっても最善なんだろうと思う。

自分の今置かれている環境を足場として着実に一歩いっぽ、ですが、灯台下暗しとはホント
良く云ったもんで、自分の足元(悪し素)というのは、ついつい疎かになりがちだという
傾向があるのは、誰にでも当てはまる事(必然)の様に思います。

足元に自分の気を集中出来るという事は、簡単では無い事だけに、ある意味凄い事でもある
訳ですが、「外側に気を向けさせておく作戦(笑)」でも書いたように、自分がリアルで

直接関われない(直接関わる気もない)処へ気が向くというのは、現実的な自分の足元から
眼を背けたくなる様な時にありがちな、一種の現実逃避傾向というか、そんな気はしてます。

以前には「嫌われる勇気」で知られる「アドラー心理学」
その【課題の分離】という表現を借りて似たような事を書いた事もありましたが。

自分が直接何か出来るのであれば煮詰める必要ありですが、何も出来ない、する気もない
であれば、その執着からは離れられた方がずっと楽だし、心言行のズレ解消にもなるしね。

TVで見る犯罪者とか芸能人のスキャンダルだとか、誰かの噂話を元にした善悪考察など
どこかの誰か(間接)の善悪云々するヒマがあったら、実地にあたる事のほうが余程活きる。

おっと^^;また少し話が逸れまちゃいました(笑)長くもなって来たし一旦区切ります。

Re: 改心 一番

2023/02/06 (Mon) 13:43:01

予祝、初めて聞きました。日本らしいですね。
明日のことを祝う。
明日へのときめきがありますね。

以前「もったいない」という言葉が世界で広がりました。
この言葉もすごい言葉だと思います。

今日、グラミー賞(アメリカの音楽賞)日本人がとったと、やってました。

Re: 改心 - 白ぽっち

2023/02/06 (Mon) 08:29:48

>意識を持つ事が原因で慢心に陥るといった危険性は低いどころか、反対に自分の中身
に自信の持てない人ほど「何かと自分は出来ている事にしておきたい」心理の働くものじゃ
ないかと思うし、外見を立派に振舞おうと(体主)頑張る傾向ならあると思います。

『地位が人を作る』という言葉がありますが、
まさにそういう感じがします。

役職があがると、それに恥じない自分になろうという意識が働き、結果向上して相応しい状態になる。

『恥じない自分になろうという意識が働く』状態にする、ことは中々よさそうですね。

心の立て直し 佐藤 孝

2023/02/05 (Sun) 09:58:22

自らの中身を低く落とす卑下が改心の足手まといにしかならない話をしてきましたが、
今度は逆に、改心に必要となるものについて、今の自分の思う事を書いてみたいと思います。

改心に必要と思えるのは、主に二つ。

先ず一つ目は、卑下のちょうど真逆。低く落とすのでなく自らの中身を逆に高く上げる事。
【自身の中身(誠ある自分)に絶対の自信を持つ事】です。
誰にも負けないくらい誠ある自分自身の尊さを誇れるよう、自らを本物と自負する意識。

中身が既に高級な神と成れた者として振舞う。という言い方もできるのかな。
自分を高く上げるというその表現に、ひょっとすると一見、慢心に陥ってしまいそうで?
危うい意識の持ち方の様に感じられるかも?知れませんが、実際の処はむしろ逆な位で。

その意識を持つ事が原因で慢心に陥るといった危険性は低いどころか、反対に自分の中身
に自信の持てない人ほど「何かと自分は出来ている事にしておきたい」心理の働くものじゃ
ないかと思うし、外見を立派に振舞おうと(体主)頑張る傾向ならあると思います。

私が言うのは、外見関係なく中身のほうの話なので、例えば仏道に精進しているある方が、
自身の中身を既に仏と成った者として生きるという事は、その時点から既に仏としての
尊い歩みが始まると思えるのと同様、神に仕える身としては、それの神バージョンって事。

ちなみに、慢心の要因として「善悪正誤知識」を得れば得るほど、それに比例するように
分かった気になり易いという傾向はあると思っていて(経験上)意識云々以前に、知識量の
大小によって左右され易いという性質は否めないかな、と思います。

信仰初級者よりも上級者が狙われ易いというのも、そういう事なんだろうと思います。
知識量の多さに応じて段々注意が必要になってくる。っていう意味ね。
(もちろん知識量に相応だけが要素ではないが、一先ず赤ん坊に慢心は不可という事)

何よりも重要なのは、その中身を高く置く自負心の少ない状態で日常を過ごしていると、
せっかく自身の善からぬ想い(悪想念)が確認できたとしても、

肝心のそれ自体を【恥じる心の働き】が鈍くなってしまう事です。

こんな自分だから多少は仕方がない。だとか、人間なんだから多少はやむを得ない。的な
考えに触れる場面はわりとありますが、自身の曲がった状態を多少なりとも許容しがちに
なってしまう事。これがどんなに勿体ない事か。

せっかくのチャンスを棒に振ってしまう確率の上がる意識の状態、考え方と思います。

ところが、自分の中身を立派に誇る意識を持っていると、うわ!こんなハズじゃなかった!
やっちまってた!と滅茶苦茶恥じれるし、二度とやるまいとする意識も相応に奮い立ちます。

自分のありのままの状態を、そのまま冷静に正確に受け止める為には、先ずはその
受け止める為の器を大きくしておく必要ありと思っています。小さいと受け止めきれない。

その自負心、器の準備(大前提の設定)が出来ていると、何より積極的に自分に対する
批判の声や胸にグサる、耳に痛いような言葉を欲するようになってくるものと思います。

欲するようになる、と言うよりも、そういう言葉と向き合いたくなる。の方が正確かな。
どんどん磨きたくなるもんだから。自分はまだまだこんなもんじゃない。もっともっと凄いハズだ
「何故なら自分こそが本物であるから」という大前提の設定がそうさせる。


田の字の中心で大の型を極めると田が四つに割れて「器」の完成。というのを教わりました。

器とは、入れ物である事と、全ての汚濁を呑み込み浄化する鳴門の「渦の輪」と自分自身と
を重ね合わせ地球と一体化の様なイメージで自己の器磨きに取り組んで来ました。(現在進行形)

自分にとって心地よく響く言葉を呑み込むのは誰にでも簡単に出来ますが、逆サイドの
言葉を呑み込む事の方が圧倒的に難しく。だからこそ磨きとなるし霊の糧となるものです。

もちろん無理をすれば潰れてしまうので無理は厳禁ですが、大前提の設定を「誠ある本物」
としておく事で、器を磨く意識も高まり、やがて呑み込んだものをちゃんと活かせるように成って
くる(十年位は掛かった、かな)のは実際の体験からも立証済みです。

また第二の自分を立てて己を観察する事も決して無駄ではないと思っていますが、やはり
自分一人の視点にはどうしても限界があり、しかしそれを補っても尚余りあるほど、色々な
人からの言葉が自分の外側に用意されてあるという事は実にありがたい。

灯台下暗しって言いますしね。


全て相手の言いなりになる意味ではないので誤解は避けたい処ですが、要するに自分の
無意識領域にある部分の点検をする機会を与えてもらえる、という事です。
自分の心に思い当たる節があるのか無いのか、をチェックする事が可能となるありがたさ。

大前提の設定、その自負心、既に中身が高級な神として生きる。それは「慢心を越えた慢心」
なのかとも思います。その設定は明主様も却って喜ばれるに違いないと思っています。
何故なら人は本来(中身が)神と成れる器だし、そこを目指す処が人としての本分だと思うから。


みなさんは【予祝(よしゅく)】という言葉は聞いた事ありますか?
予祝とは、文字通り「予め祝う」というもので、日本古来からの風習の一つらしいですが
本来「花見」も「予祝」として行われていた、というのがそのルーツらしいです。

秋の豊作を、春の段階から前もって先に祝っちゃう、というもの。陽気な日本人らしい(笑)
「喜べば喜びごとが来るぞよ」的な事ですが、意識の大前提を先にそこに置くことで、その
意識通りの、自らが出した波動通りの喜び事が起こる確率を飛躍的に上げる儀式みたいな。

それと同じような事です。大前提の設定を先に立派な人格者に仕立て上げておくという事。

いつも言っている通り、どんな考え方を採用するのかしないのか、それぞれ本人の意識、
意思決定次第で、その決定権は本人にあり。色々と様々取捨選択の自由ある中で、
自分自身の中身が立派に進化して行けるもの(肌に合うもの)と出逢ったり(又は独自で)

それを自分のモノとして順調に歩んで行けるものなら、それで善いんで。
そういう色々な考え方や、やり方がある中で、私のおすゝめはそれ、という意味です。

コツを掴んで自分のものと確立する迄には色々と試行錯誤、紆余曲折あるもんと思います。

一先ず最初に挙げるのは「自らの中身を高くあげる」という大前提の設定の見直しが一つ。
日頃から自分を卑下する事に慣れ親しんでソレが習慣づいている方、自己肯定感少な目だったり
罪悪感多めの人ほど難しく感じる取組みかも知れませんが、逆にそんな人にこそおすゝめです。

自分自身を決してあなどってはいけない。

補足 佐藤 孝

2023/01/21 (Sat) 08:16:34

お詫びを心掛ける事で改心に至れる訳じゃない。という様な内容を前回書きました。

少し検証も含め整理しておく意味からも、ちょっとだけ付け足しておきたいと思います。


神に対して「心から」お詫びをせずにはおれない場合は、まんま素直にお詫びするのがよい
と思います。神との約束は絶対ですから、もう二度と繰り返しませんと誓えるようであれば、
それは却ってその誓いが、その後の後押しとも成りそうに思えるのでむしろ全然アリかな、と。

でも。よくよく考えてみれば、

心がその状態にまで至ったのだとすれば、それはもう既に改心に至って(転換が済んで)いて。
その結果、自然と湧いた想いが「過去のお詫びと今後の誓い」という順序であろうと思います。

「お詫び⇒改心」✕
「改心⇒お詫び」〇

としたら、やっぱりお詫びをする事で改心に至れる訳じゃない。というのは言えてるよなぁ、と
あらためてそんな事を思ったので、ちょっと追記しました。  以上です。

続きです 佐藤 孝

2023/01/08 (Sun) 10:57:53

次に、最初にも書いた通り【懺悔】と言えば大抵はキリスト教での罪の告白的なイメージが
多いのではないかと思いますが、例えば、そのイメージが自身の進化に大きく貢献出来て
いるようであれば、勿論その価値観を大切に生きる(歩む)のが最善に違いないと思います。

ただ、現時点で、私はそのやり方で中身の上手く進化出来た人に未だ遭った事がなく。
そして、何より私自身には、そのやり方じゃあ絶対に進化は無理でした。全く肌に合わない。

どこまで行っても自分自身の信仰のあり方・考え方なんですが、例えばキリストを神と拝む。
それはそれで信仰の自由、と本心からそう思いますけど、だとしたら(もし自分だとしたら)

自分の罪を、自分が信じる神に代わりに背負ってもらって、それに感謝する意味は解らない。
私には、そんな申し訳ない事は出来なくて、逆に自分の罪を代わりに背負う贖いに因る杭を
引き抜いて、自由の身と成って欲しいように思います。(自分の罪は自ら背負い解消に臨む)

先述した私なりの【懺悔】の捉え方も、丁度キリストの磔の「杭(悔い)を引き抜いて」
不自由な縛りからの解放(杭の殲滅)を推す感じで、ある意味キリストを磔から救い出す
救助?的な?そんな意味まで含まれている様な、そんな繋がりを思います。

あらためて【全てを生かそうとする】心の(救いの)在り方が自分流の信仰だと実感します。
(心に内在する垢(原罪)は自分で刈り取り無垢とする、完全自立の自力信仰。かな)


生かす懺悔は改心(心の改まる)とも重なりますが、「改心=懺悔」の様な感覚ってのは
元々人の心に備わる(魂自体に備わっている?)天賦のうちの一つなのかも知れません。

でも、こうして改めて整理してみる機会のないままに、漠然と捉えた「懺悔のイメージ」
大雑把に言えば「土下座して詫びる・卑下する感じ?己を罪人扱いする重さ」だけが先行し、
その漠然効果ゆえ、自然と改心から遠ざかる。の本末転倒を頻繁に感じる場面の多い訳です。

これも、実は魂自体には元々「卑下」の違う事の判る機能までちゃんと具備されていて、
自分の心を地に落とし、暗く重い処に居続ける事に、晴ればれ出来ない様に出来ていると思う。

人という神の芸術に対し、自らの意思をもって最底辺の地にまで落とす「卑下」には違和感
在りつつも、懺悔の何となく重い(イメージ)に向かうのも嫌だと感じる正常な感覚も働き。
その同居が、卑下の態度で居る事を無難と選択し、自身の心と真向かう意識の敬遠に繋がる。

ちょっと言い回しが変かな?(笑)もうちょっとシンプルさを心掛けて言いかえてみれば、
誰でも深い処では己の心と真向かえる器が本来である事を知りつつも、肝心のその心が
暗く重く落ち込む方向に向かう事を本能的に喜べない結果、真向いを敬遠しがち。かな?

ただ、人によっては長年卑下し続けて来た結果、それがすっかり習慣になってしまっていて
ちょっとやそっとじゃあ救いようの無い(自身の霊が最下級に迄落ちきってしまっていて)
そこでの立ち位置(最底辺)が相応して、苦痛を手放せないというパターンもありますが、

それこそ自分を卑下する感覚に対してドーパミンが出ちゃう位までの?余程のマゾ的性分
(動物・馬霊?の憑霊?)にまで完璧に落とし込んでしまった場合は一旦別のケースとして。

普通一般的には、卑下や懺悔の(自らを罪人扱いする)自分の中身を悪と落とすイメージ。
そっちに向かう事で心が喜べる状態にあれるのか、かなり疑問、と言うか無理?じゃない?

自分で自分の心を低く重く落とす感覚は地獄的と言ったらイイのかな、凄~く重~い感じ。
難行苦行寄りの思考じゃあ天国的信仰(=心の軽さ)を保ちづらいじゃあないのかな、と。

とは言うものの、私の場合は基本的に長く落ち込むという事が出来ない性分なんですけど、
それは、落ち込んだ時、無理に上げようとはせず、そんな時こそ思いっきり落ち込む方向に
益々自らを落とし込み、その景色での自分の心を感じきろうとするので、時には必要か(笑)


本来の信仰って、自分の伸びしろ部発見に、ヨダレを垂らすくらいのワクワク感があって、
未来で進化した自分を楽しみに期待しつつ、鼻歌混じりに余計な力も抜けて歩めるからこそ
継続して更に頑張りたいと思える(精進し続けられる)ものじゃないかな、って思う。

だから、ここで徹底的に「卑下」の「自分を低く落とす」事の大間違いは書いておきたい。
ただ、これもまた心の内面での意味であって、行動面に謙虚さを出す為に、それを利用する
場面は途中過程に於いて必ず必要だとも思っている事の真と仮の違いも書いておきます。


以上、懺悔の重いイメージを切り離してみたいチャレンジでしたが、何処かの誰かの心に
例え一部でもヒットする事を願いつつ。また、何も感じなかった人も含めて、あなたなりの
信仰の確立へと順調に歩んで行ける事を願いながら、チャレンジを終了したいと思います。


次回は、リアルでの私流の「改心のすゝめ」そのベース的な?話をしてみたいと思います。
大変長くなりましたが^^;今回も皆さん、どうもありがとうございました!(拝)

無題 佐藤 孝

2023/01/08 (Sun) 09:05:54

【懺悔のイメージ】について、ですが。

懺悔と言えば、その多くはキリスト教の、神の御前で罪の告白を的なイメージが多いのでは
ないかと思います。仏教にも懺悔(さんげ)はあるらしいのですが、どのイメージが正解か
とかいう話ではなくて、心に重い感じのするあり方を切り離せたらイイな、と思っています。

ざっくりとですが、自分へのダメ出し的な、悪い所(短所)や不足部探しからの猛反省的な?
そういったイメージばかりが先行しがちで、そこに重さを感じるがゆえに、結果として
自分自身の心と真向かう(かえりみる)喜び。本来の歓喜とは逆方向へ向かう傾向にあると

そんな風に思えるので、先ずは【懺悔】について今の私の思う事を書いてみたいと思います。


本来の、大神の意に沿った「懺悔」というものが存在するとしたら、私的には、そこには
「悔い」を「殲滅」するの意味があるのではないかと思っています。

もう少し日常寄りの表現で言えば【過去の過ちを今に活かせる事(後悔の解消)】が
それに当るのかなと。

ちょうど「更生」の「甦り」にも通じる内容ですが、過去の過ちに罪悪感を抱え続けたまま
その罪滅ぼしの為に生きる的な感じの意味じゃあなくて、むしろ罪悪感に対する感じは逆。

【過去の自分の過ちに価値を与える事の出来た時】みたいな事が言いたいつもりですが。
あの時の、あの過ちがあったからこその今、的な。

そう成れた時に、ようやく過去の「悔い」が、重い感じのものから軽い感じへと昇華する。
悔いの昇華(消化)は、過去を塗り変える(転換)力と言っても良さそうに思ってますが、
これにより「過去が変われば未来も変わる(運の好転)」まで同時に成り立つ様に思います。

心の重さが取れて軽くなれた分だけ、心の自由度も上がり、それまでの【戒律(理性)】
による制御(義務感?とか堪忍?)の必要性も相応に減っていく感覚がありますけど

獣には縛り・檻など制御が必要でも、その心の転換は、縛りのほどける時とも言えそうです。
それは同時に中身が神と成った(一段昇れた)証でもあると思います。勿論、神にも段アリ
ですから、それをもって一切が完成するという意味ではありませんが。

一つひとつその消化に努めるにつれ、一部が一つずつ完成・進化の結びに至るというだけで、
そういう事の積み重ねの絶えない(精進&休憩・地道に歩む)一段いちだんが肝と思います。

また、どうしても心の転換が上手く出来なくて多くの罪悪感を抱えてしまいがちな人には、
元々、日々の祝詞に「諸々の枉事罪穢れを祓い給へ浄め賜へ」とやっている訳ですから、
それにより罪を祓ってもらえている事を信ずる【他力の信「も」必要】なのかも知れません。

大体、今の私が思っている【懺悔】の在り方とはそんな感じ(悔いの昇華)です。

ちょっと長くなりそうなので、ここで一旦区切ります。

Re: 改心 - かえ坊

2023/01/03 (Tue) 19:27:59

佐藤さん

>大事なのは、形物先行の体主に心が伴うの順序ではなく、それぞれの想いが先に出て
その結果としてそれぞれの想いの顕現が為され波紋的に拡がって行くという順序かな、と。

本当にそう思います。やっぱり想念が始めですものね。どこまでも世界人類救済、地上天国建設の想念をしっかり持っていきたいです!

懺悔のイメージの分離、楽しみにしています。

無題 佐藤 孝

2022/12/25 (Sun) 10:06:02

ちょっと前の日常での出来事ですが、ラジオから流れる懐メロに、鼻歌でドライブの最中。
そのメロディー自体は完全にお馴染みで「ふんふん♪」と歌っていたのですが。ふと

あれ?そう言えば歌詞(内容)をほとんど知らない。とそんな事に気が留まり、あらためて
どんな歌なのか気になったので、運転終えてから携帯で歌詞をじっくり見ながらもう一度。

昭和の名曲のうちの一つ、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」

出だしの「恋人よ~、僕は~旅立つ~」と、最後の「ハンカチーフく~ださい~」だけは
ハッキリ知っていたのですが。始めから最後まで一連の流れを全て把握できた時、はじめて

魂揺さぶられるほどの感動と、心が締め付けられる様なせつなさとか虚しさだとか。
ああぁ~!だから「木綿のハンカチーフ」ってタイトルだったのかぁ~!と(いまごろ、笑)

こりゃあヒットする訳だわぁと納得。で、帰宅後家族にもその感動をまんま伝えたところ、
子供達からはある程度共感を得れたものの、女房からは「えぇ~?!今さらぁ~?(笑)」
と笑われて。と、そんな事がありました。


この歌、ちょうど今書いている「改心」のテーマにぴったりの「体主(悪)」と「霊主(善)」
その心の在り方、移り変わりの様子など、わりとシンプルに詰まっている様に感じました。

この男性パートの彼。日常を楽しく愉快に過ごす様子が見て取れるものの、人として大切な、
重要な部分を徐々に見失って行く心の落ちぶれ具合を上手く描けていると思います。

物に、金(高価なもの)に、見た目のきらびやかさ(形)に魅せられ、一般的な現世での
勝ち組み?とか成功者の図?とでも言ったら良いのかな?そっち方面に魅せられる事で、
徐々に大切なものを見失って行く、典型的な体主特有の引っ張られ方と言えばイイか。

元々備わる自然な心の次第に歪んで(純粋さを失って)行く様子が表現されているなぁ、と。

一方、女性パートの彼女の、いつまでも大切な存在(彼)の事を大事に想い続ける様子と、
自然ありのままの状態を好む、純粋な心の動きが感じられ、双方の対比を絶妙に思えた。

【何を喜びとするのか】の【軸】の違い、霊主(善)と体主(悪)の差を見て取れやすい。

例えばこの世での社会的地位や世間的信用評価、名誉・名声・権力などもそう思いますが、
死を境に、彼の魅せられたものは何一つ霊界へ持ち越せない(何の価値も無い)のに対して、
彼女のそれ(純真な心)は。

いや、彼女ばかりでなく彼でも、誰でもそうですが、例え持ち越ししたくなくても、必ず
セットで付いて来る【死後もそのまま自分持ち、であるのが中身(自分の心)】なので、

現世に於いての御魂磨き、どれだけ心の垢を落として逝けるのか。改心の尊さ、その価値
をあらためて伝える事が出来そうだと思いました。

それこそ、死んでからでは遅い(後悔先に立たず)と思うからこその、今の話として。

彼が改心に至るには「目には見えない部分」にこそ宝のある事を思い出す必要がありますが、
現実的には、先ずは形ある物を失う挫折的な何かが最初のきっかけにはなりそうですけど、
一度落ちた心の、その落ちるのは簡単でも登るのが中々難しい性質アリなので、果たして。

ですけど、まぁこれは歌の中の話であって実在の人ではないので、これ位にしておきますが、
なぞらえ方としては、わりと伝わり易い題材かな、と思ったので書いてみました。


改心は、真の幸せ掴む為には絶対に切っても切り離せないものだし、もちろん天国入りの
条件でもあるし、と。まぁ、色々と何から何まで善い事づくしって訳です。^^

大体、こんなところで【改心】の素晴らしさについても充分伝えきれたかな?と思うので
今度は、最初の方にも書いた通り、【改心】の妨げに成り易いと常々感じている
「懺悔のイメージ」の分離に挑む?的な内容で書いてみたいなぁ、と考えています。

今回は以上です、どうもありがとうございました。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/12/18 (Sun) 11:01:19

>御教えに倣えば結局は、先ずは家庭(足元)から。「小円」から始める事になるんだろうと思う。
順序的にも、小さな事の為せない人に大きな事など余程無理(一事が万事)

本当にそう思う。

秀明の布教時代、各家庭のお母さんは一生懸命毎日参拝、布教していたけど、
家庭か顧みられず放置されるパターンが多かった。

(布教メインの)御用をすることで家庭もよくなる、という考え方を上から言われていたから。

結局『法(御教え)』に沿っていることが御用であり、
沿っていれば、自然と家庭も良くなるし、
間違った解釈で進んでいれば、家庭は崩壊気味になる。

両方のパターンの家庭を見てきました。

ウサギ年か~。変化速そうだね(笑)

無題 佐藤 孝

2022/12/18 (Sun) 09:51:07

毎年の事だけど、今年も気付いてみれば、もう残り僅かだなぁ。

今年が寅年で去年が丑年、この二年間は「丑寅(ウシトラ)」の年回りで、来年がウサギ年。
動物のウサギの漢字は「兎」だけど、干支の表記は「卯」で、東西南北の方角もそうだけど
時計の時刻の「刻」にも対応してるみたい。

草木も眠る丑三つ時だとか、「丑の刻」参りとか言う、それね。

丑も寅も牛じゃないし虎じゃなく、兎が卯に対応してるのも何かと意味深だよね、(笑)

「卯」の漢字が(先ずはその形から)少し気になったので調べてみたんですが、やっぱり
色々と意味があって面白い(卵の字と同じ左右対称?と、チョンの抜けてる形が気になった)

ウサギを右左岐と解かれた方の話が記憶にあった事もあり、あらためて来年という年は、
霊的にの意味なのか体的に現れて来るという事なのかは分かりませんが、体主(右)と
霊主(左)とに別れる縦別け(縦に割る事で右と左とに別れる)の意味がありそうだなぁ、

と、そんな事を思います。

霊層界の上下で別れるのが普通(?)審判のイメージとしてはありそうだけど、横分けなら
上下でも、縦別けだと確かに左右になるよなぁ、とか思うと言葉ってホント絶妙で面白い。

干支の漢字に時刻的要素ある事からも今の時間帯は、童謡「かごめ唄」にある「夜明けの晩」
に違いないと思っているので、慌てず急ぐぞ&急がば回れ的な、そんな心境でいます。


「嬉し嬉しのミロクの世」は神様が創って下さるのを見守る事で成就するものじゃなく。

自分達の想いの寄せ集めによって築き上げて(顕現して)行くものだと思っていますが、
自分一人の力じゃあ何も出来やしない(大したことは出来ない)という率直な思いと同時に
人一人の力って、なかなかあなどれない、という想いと両方(おもい二つ)在りますが(笑)

心は一つ。どんな時も決して希望(光・灯り)を見失わない方向で。

その定まった明るい未来からの光を体感する神の使い(真の信仰者)のうちの一人として、
精一杯に、悔いを残さぬよう自分の使命を全うしていきたいと思っています。


またここで改めて書いておく必要がありそうだ、と感じた自分の表現に出くわしました(笑)
「神様が創って下さるのを見守る」という惟神?についてですが、よくよく顧みてみれば、
これほど神と人との立場逆転の慢心も無いだろうと思えるくらいの意識・心の怠慢かな、と。

【見守る】のは親の役で。神策成就の為に真心を呈して顕現化して行くのが神の子の本分。
その本分に加わる余計な力(執着)の抜けた処に現象(神の働き)も発動する様に思います。

浄霊も、神と人との共同作業であるように、ミロクの世を建設して行くのも同じ事と思う。
ただ、大事なのは、形物先行の体主に心が伴うの順序ではなく、それぞれの想いが先に出て
その結果としてそれぞれの想いの顕現が為され波紋的に拡がって行くという順序かな、と。

御教えに倣えば結局は、先ずは家庭(足元)から。「小円」から始める事になるんだろうと思う。
順序的にも、小さな事の為せない人に大きな事など余程無理(一事が万事)と思えるし。

とにかく足元が大事。自己の本分を放棄した神任せは悪任せ。見た目は同じ惟神(瓜二つ)
であっても、その本質は全くの別もんだなぁ~、と改めて再確認&実感するところです。


いつも書いてるうちに寄り道が多く、やっぱりついつい長くなっちゃうなぁ^^;
まぁ、昔っから道草食うの、結構好きだったしなぁ(しゃ~ないか、笑)

一先ずまた、今日はこれくらいにしておこう♪
経験上、慌てるとロクな事ないしな。急がば回れって事で^^

Re: 改心 - かえ坊

2022/12/10 (Sat) 00:20:12

佐藤さん

腎臓透析するくらいまでいったのに、それを免れたというのも凄すぎると思います。信仰がまだ浅かったといっても、想念が良かったのでしょうか?元々毒素が少ない!?少なかったら、そこまでキツイ浄化にならないでしょうか。。。、

実は私もメシヤ教に何回か行ったことがあります。浄霊力強いと思いました。また、行ってみようと思っていたら、解散していて残念に思いました。

今は浄霊ヒーリング協会で浄霊いただいておりました。

教団の分析、とっても面白く読ませていただきました。それぞれの教団の特徴あって、そういうのも聞いてみたいです。改心とは、違った話題になってしまいますが...、

あと、どうやれば人を救えるだろうという想念、明主様を信じ切る、うまくいかないときにこそ自己反省ではなく明主様への感謝、とっても大事なことと思いました。ありがとうございます。


白ぼっちさん、管理人されてるのですな、お世話になります。

白ぼっちさんもアトピーとの事、痒くて辛いですが、自然食と浄霊で頑張りましょう。

白ぼっちさんも複数教団体験されてるということで、また教えていただけたら面白いなと思います。もしかして、一つの波紋は3ですから、1か2でされてるかもですが...、

場ではなく、想念ですね。最後はそうですね。どのような想念でいられるか、ということでしょうか。

世界的大浄化を乗り越え、病貧争のない天国世界にふさわしい想念となれるようにしないとな、と思いました。

ありがとうございます。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/12/09 (Fri) 10:45:07

かえ防さんこんにちは。

>上からずっと読んできて、ようやく読み切りました(^^) 

管理人として、過去記事が読まれ生かされていることが嬉しいです。
アトピー喘息、僕も幼少からずっと持ち越しています。
まだまだ勉強です。
それぞれのペースで、やっていきましょう♪


僕も複数教団経験していますが、結局『想念次第』だと思っています。
場の影響は大きく、軽んじるわけでは決してありませんが、
自分を含め周囲の人を観察すると、長い目でみてやはり場ではなく想念で決まってくると感じます。

無題 佐藤 孝

2022/12/09 (Fri) 08:34:24

>とてもわかりやすかったです。

なら良かった^^

>すごいです。

ありがとう♪

>絶対薬使わす治すっていう意思の強さ

意思が強いと言うよりも、自然に放っておけば勝手に良くなる事は解っていたし、子供も
まだ社会生活とは無縁の0歳児だったので、症状抑える必要性が皆無だった事と、のちに
喘息として持ち越すのは何としても阻止しておいてあげたかった事など。他にもあるけど

そんな想いの集合を基に、その時々の判断・選択の連続だった、というだけの事かなって。

>浄霊力が強かったのではないでしょうか?
>信仰の深さによるものですか?

浄霊力に関しては弱いとも思ってませんが、この長男の浄化では特に集中的に浄霊を徹底
した訳でもありませんでしたし、その当時の自分の信仰はまだまだ全然浅かったし(笑)

>所属している教団で浄霊力はけっこう違うものでしょうか?

どの教団でも同じように結果の出る人出ない人は、それぞれ居るじゃないでしょうかね。
また、結果の出る人の場合であっても、結果が出ない場面に遭遇するのが必然と思うし
ソコが節になって伸びて行くもんだと思うから、本当にそのタイミングも様々と思います。

移籍する事で前教団よりも明らかに強いと感じる体験談は、わりと耳にしますが、その話が
一番多いのはメシ「ヤ」教かなぁ?自分には合わなかったので数カ月程度で離れましたが。

治療に専念するという意味なら多分ですけど、東方之光が一番体的急所の探査に長けて
いるんじゃあないかなぁ?結構勉強にはなると思います。また、想念ならいづのめか?
短時間浄霊とか布教を頑張りたいなら秀明会か?みたいな勝手なイメージはあるなぁ(笑)

まぁ、それぞれ特色はあると思いますけど、私の個人的な意見としては、かえ防さんの
現在所属されてる教団のままで特に問題はないかと思いますけど、例えば現教団に何か
物足りなさを感じていたり等ある様なら、自分の惹かれる所への移籍はアリと思います。

ただ、教団は何処であっても、「どうしたらこの人を救えるだろうか」に専念する事が
結局は一番の近道なんじゃないかな、って思うのと、あとは明主様を深く信じる事の信念。

特に結果が出ない時ほど、自己反省よりも比重は「現状ですら明主様の御守護である事」の
どこまで信じ抜けるか。その辺りが肝のような気はしますね。

喘息の浄化、頑張って下さい!

Re: 佐藤さん - かえ防

2022/12/09 (Fri) 01:39:04

返信いただき、ありがとうございます。

とてもわかりやすかったです。湧いてくる感謝、どんな時でもそのようになりたいです。

ところで、佐藤さんは大変な腎臓の浄化、子供さんの重度のアトピーの浄化を浄霊で乗り越えて来られたんですね。すごいです。絶対薬使わす治すっていう意思の強さはもちろんですが、浄霊力が強かったのではないでしょうか?それは個人の信仰の深さによるものですか?それとも、所属している教団で浄霊力はけっこう違うものでしょうか?

私はアトピーだいぶ良くなったのですが、喘息がなかなか良くならず、でも浄霊で治します。

かえ防さん 佐藤 孝

2022/12/08 (Thu) 08:32:46

かえ防さん、初めまして!

難しく感じながらも読み進めてもらえた事、ホント嬉しいです、どうもありがとう!

心を感じる事について、ボランティアの例で質問してくれましたが、
「いやいややる」ほうについては、【やりたくないと感じている】明確さがあると思います。

一方、「心からさせていただく」ですが、こっちは
自分自身の心(本心)に、より注意深く敏感である事が必要となるパターンだと思います。


例えば同じ「感謝」でも。感謝しようと思ってする感謝(感謝させていただく)感覚と、

たとえ感謝するなと言われても「心底湧いて来ちゃう感謝」との違いは感覚的に判りますか?

真に「やりたい」事を止められた時、残念・がっかり・悔しい・悲しい等、感じるとしたら
それは「やりたい」という心に偽りはないと言えそうですが、・・・みたいな感じです。

その時々の今の自分の本心、また、喜怒哀楽の感情も含めて意識的に心の状態に敏感に。
みたいな事ですが、果たして質問の答えになってるでしょうか。

もし質問の意味と噛み合ってない返答だと感じるようでしたら、また遠慮なく仰って下さい♪

Re: 改心 - かえ防

2022/12/08 (Thu) 01:03:53

初めて投稿します。よろしくお願いします。

上からずっと読んできて、ようやく読み切りました(^^) 

なかなか難しい内容かなと感じました。

心を感じるってちゃんと理解できず、ボランティア活動の例で、心からさせていただく、というといやいややるっていう違いがわかればよいのでしょうか?

あと、最後の審判を乗り切れるように心の持ち方をしないといけないというのは(表現違っていたらごめんなさい)すごく納得します。

その時期も迫っているように感じますし、最後の審判では地獄界がなくなり、天国界にいれる御霊の人しか残らないとききます。それには、悪に属する想念がないような人間にならないといけないなと思っています。

無題 佐藤 孝

2022/12/05 (Mon) 07:39:30

>大難を小難に 小難を無難に や w

だそうです^^

>確かに改心は必要みたいやな

伝わってもらえたようで良かった♪

( ´,_ゝ`)プッ - ?????????

2022/12/05 (Mon) 00:00:20

>>大難は中難に また 中難は小難に

大難を小難に 小難を無難に や w

確かに改心は必要みたいやな


続き 佐藤 孝

2022/12/04 (Sun) 10:26:28

今はもう、争いを終わりにして真の信仰の常態化した人で溢れるミロクの世に備える為の
いよいよの準備期間というか、自分自身の信仰に於いて腹帯締めてかかる大事な時だから、

改心を必要とするのは、こういう話の心に届かない人。ではなくて、むしろ感応し得る人達。
本物の信仰者しか登って行けない天国への道・狭き門=改心の積み重ね(真の信仰)なので、

二元の善悪を越えた先にある絶対善(真)を深く腹に落とし込み、その真の波動を持って
周りを感化して行く。いや、感化して行くと言うよりも、真だけにその波動で周りは勝手に
感化されて行くから、徐々に波紋的に拡がります、時間は掛かりますけど。それでも、

そういう人の増えた分だけ、これから起こるかもしれない大災害の、大難は中難に。また
中難は小難に、へと振り替えて戴ける、自分の出来る救いの為の奉仕、御神業と思います。


悪憎むその心が悪ぞ。とか、審判が早く来ないかと災害【待ちわびる】心は悪、との示しや、
この神は殺す神ではなく救う神である。等の神示もありますが、メシヤの御心をそのまま
自分の心とまつり合わせて行ける様、御神意を深く覚ろうとする事の【意力】が肝です。

一人ひとりの「誠ある真の信仰」が自分のみならず「世を救う」力となる事を確信してます。


【「改心」するのは「信仰を持った善人」の側】というのは以前から書いて来ました。

これは信仰がある程度深まれば(慢心も複数越える実体験も伴う故)自ずと腹落ちしますが、

何しろ昔からずっと片側悪を叩き潰せさえすれば善い世の中が来ると信じる(夢見る)人の
圧倒的に多かった野蛮な期間(争いの絶えない夜の時代・戦国時代?)だった様に思うので
薬剤迷信と同等に、なかなか価値観の転換の難しい(受け入れがたい)話かも知れません。

その要因となっている様に思えるのが、最初の方にも書いた「懺悔のイメージ」にあると
感じているので、それについても後述するつもりですが、先ずは改心の善さを先に存分に。

そんな想いから色々と書いて来ましたけど(散らかってますが^^;)続きはまた次回に!

統合 佐藤 孝

2022/12/04 (Sun) 09:45:51

メシヤとは国常立尊のことで、この神様が「絶対善の神」であると御教え戴いていますが、
今回は、この【絶対善】という部分に少し特化してみたいと思います。


先ず【絶対】の文字を見てみると対極の【対を絶つ】つまり二つでなく一つと出来ています。

先回の、二本から一本へと移行して行く「にっぽん」発音と同じような話になりますが、
確かに「にほん」対極ある中で、その「対」を絶やして「いっぽん」の一極へと推移する。

また、相対で言えば他との「差」を取って「同じ」一体とする様な、そんな意味が【絶対】
という字にも込められ、宿されていたんだなぁ、という事を思います。


次に「富士と鳴門の仕組み」が国常立系の神示として、確か日月神示?から岩戸を開く為の
その仕組みとして出されてあったよう記憶していますが、鳴門の方は一旦置いておきます。

日本の象徴=富士山と言っても良いかと思うので富士の方で書いてみます。【富士=不二】

【不二】とは。

二元的に観える物事(対極)も【「絶対」的立場】から観れば対立は無く一つであるの意。

要するに、これも同じような意味を持ちます。


また、富士山に登る(霊峰登山)姿を型として、信仰の向上になぞらえ読み解いてみると

日本一の山「不二山」を登った先に拝む景色・御来光は「格別」であるとも紐解けます。
雲(曇り)の上だったりもするし、下界を見下ろす。なんて事も言えそうだよね^^


明主様がメシヤの型を示されたのも【観る時は大乗でもって観る】と示されて在るのも、

メシヤ様信仰の向かう先(一先ずのゴール)は、経緯善悪正誤二極を結んだ先の【一極】

つまり、大乗の視点から物事の観方の出来る様に成れる事を願われての神示しと思います。


二元的に在る善と悪の、その片側の善は「絶対善」の善とは別物、という意味ですが、逆に

反対側の悪もまた「絶対悪」とは別物で、小乗の節穴からはそう観えるだけの悪でしかない。

そんな意味ですが、この文章そのままだと人によっては捉え方が難しいかも知れないので

【全ては一つ】だという【善悪不二】の【真】の意味も、もう少し別の角度から例を挙げ
例えてみた方が更にイメージし易くなるかな、と思えるのでそうしてみます。


例えば、右手と左手。又は左足と右足でも良いのですが、どちらで見ても、各々その造りは
ちょうど真逆で対極に位置しますが、それのどちらが善いでも悪いでもなく、両側の役目、
役割り、各々別の動き・働きが揃って「一体(一つ)」であるという処が【真】ですよね。


また、地球規模(大乗)で観れば人類皆兄弟。一人の例外も無く「皆同じ地球人」であって、
本当の処(真)では一体であるハズなのに、自分の気に掛かる(目・耳・鼻につく)相手を
自分都合で反対側と別け、善悪ジャッジする(悪と裁く)から、争いも終わらない道理です。


ただ、こういう話は、昔の自分の様な無信仰者に伝えたとて、真に伝わる事の出来ない話で、

それこそ心でその真を、どこまで深く感じ取れるか。は、各自真仰に託すより他に手は無く、

ソレのそういう部分、両極結んで生まれた先の二元的でない【真】こそが【絶対善】ですよ。
と、そう言ったところで、又それを知ったとて余り意味の無い話とはなってしまいます。


ただ一応、真の自分を開花させる為に【極めて重要】な事柄なので改めて示すのみ、です。

また、世の中から悪を根絶やしにして行く為にも、どうしても必要な事だからこそ、です。


対極にある善と悪とを結べば真と成って「悪は消えてなくなる」の道理・真理(神理)は、
自分が産まれる以前の、昭和初期にはもう既に明主様が開示(御教え)されている訳で。

その開示されたものを体験を通じて自分に消化できた内容を、自分なりの言葉で、表現で、
あらためて伝えているだけの事でしかありません。

無題 佐藤 孝

2022/11/20 (Sun) 23:02:08

投稿ついでに思った事を少し追加で。

最後の審判は、まるで神が悪人にバチを与える的な
そんなイメージも多い事だろうと思っていますが

一説には、神が裁きを下す。という事ではなくて

人が各々、自らの意思を持って、堕ちて行くのか
それとも、上を目指し昇って行くのか。

その心の歩み・自由意思を最大限に尊重されている。という話があります。

私的には、猛烈なるその説推し(笑)です。

無題 佐藤 孝

2022/11/20 (Sun) 22:38:26

白ぽっちさん、いつもありがとう^^

昔からこれまでの経綸として、
神は物質の発展を優先される為に悪を許容し(国常立尊様御隠退)。だったと思います。

どうして物質の発展のほうを「先に」優先されたのか、その理由についても明主様は

時期が来れば精神の方は一気に引き上げも可能だから、と確か仰られていた?
ように記憶していますが、自分的には、今はもう精神の引き上げ期と心得ています。

なので、どうしてもタテの要素ばかりの話になってしまい、白ぽっちさん御指摘の通り
>結構受け取り方が難しいかも。

は、まさしくその通りと思います。

>分かったような分からないような言い方

にしかならないんですよね^^;

御教えにも「我があってはならず無くてもならず」だとか
「決めておいて決めないのがよい」だとか。それって結局どゆこと?的なの、多いですよね。

副守護神を絶対悪だと断定しながらも「行動の源である」という
人として生きる以上、絶対的に無くてはならない必要性も説いておられたりする訳ですが、

悪を許容する時代は、もう終わりにする時に既に入っているものと思っていますので、
絶対悪を受け入れつつ自分の中の悪を終わりにする(←こういう言い回しね、笑)為には、

どうしてもタテの要素を深く覚って行くより他に、精神の引き上げは成せない
と実感しているところですが、

>別の言い方をすれば、
>自分の言動に心から納得できているか。

は、まさしくその通りと思います。
別の視点からの、その人の言葉はとても貴重です♪総じて、いつもありがとう♪

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/11/20 (Sun) 13:18:18

タカシさんの言っていること、
タテの要素のみ?の霊界であれば、何の問題もなく誰にでも受け入れられそうだけど、

ヨコの要素が加わる現界であれば、
物事を進める上における妥協、
それに伴う心がどうかなど、
結構受け取り方が難しいかも。

心と言動が完全に分離しつつ、しかし密接に関連している。
分かったような分からないような言い方だけど、
結局そういうことなんだろうと思う。

別の言い方をすれば、
自分の言動に心から納得できているか。
そういう風に見れば分かりやすいかも。

無題 佐藤 孝

2022/11/20 (Sun) 09:25:21

改心の善さ、素晴らしさも、そこそこ伝える事が出来てきたかな、と思ってはいますが、
自分的には、まだもう少しもの足りなさを残しているので、その感覚に従いもう少し。

【改心】の、改めて【意識的に・特に】注意しておいて欲しいと思っている事があって。
言葉の持つ意味の誤解釈を出来るだけ減らしておきたいという事でもあるのですが

【改心】とは「心が改まる」の意味であって、つまり「かえりみる」部分も改善する部分も
全部【心】の意味(霊)で書いて来たつもりですが、体を主体に生きる都合上の癖なのか、

考え出すそばから体的面の形(言動)どうこう、にばかり意識が向いてしまう。があります。

もっとも、方法とか手段など、目に見える形として、事を改善進化さす為には、その思考(頭)
が使えてこそだと思うから、その思考の働き自体は何もおかしな事ではないのですが

こと心に関しては、そういった思考を使うでなく【感じる】という感覚に意識を向けないと、
今の自分の心の状態(想い)など把握できないまま、思考(形)だけが先行しちゃって、
本質である中心の心(霊・原点)から離れた外郭(核・中心の外側)をグルグルと巡りがち。


何をどう感じているのか。どうありたいのか等も、全てそうですが、自分の心に訊いてみる、
何をどう感じているのかを自分自身の心に問うてみる、みたいな感覚って伝わりますかね。

そういう「心の状態を感じる」という事にだけ集中しないと、特に意識的にそうしないと、
思考はすぐさま言動の形の面を考え出して心から遠ざかります。「形を省みる」というのは

それは【改体】であって【改心】とは別。意味が全然違っちゃうので留意してみて下さい。

我が身を振り返るにしても、その時の言動(形)じゃなく、心の状態がどうだったかなので。


過去育って来た環境が、何か悪い「行動」をした時に叱られる。悪い「発言」をした時に
注意されるなど、繰り返し「言動の間違いを指摘される」場面に遭遇、を重ねて来る事で
無意識レベルで「言動」に対して注意深く「言動」にのみ意識が向いては省みる。という

その体主癖(改体)が定着するのも、それは極普通の誰も避けては通れない道と思いますが、
そもそもそれ自体が心言行の一致からズレた「二の腹」を残留させちゃう要因と思えるので、
改めて「心の赴くままに生きる事の自然さ」(霊主)も伝わるのではないかと思います。


自然体で生きるという事は、今の自分を丸ごと受け止める【現状肯定】という事でもあり
逆に、言動に制御の必要性を感じるという事は、もちろん良心の働きが在ってこそ、とは
思うものの、それは同時に「内在する悪的要素を感じている」という事でもあるでしょうし

今の自分を丸ごと受け止めきれていない(部分的自己否定)が在る証とも言えそうですが、

問題は往々にして「否定」部分に潜みがちと思うので、後生大事に中にしまっておくよりか、
自然と表に出せた方が、より「現状の自覚」も出来易く、根本解消に臨め易い様に思います。
(但し、心の改善に至る為には先述した通り、恥・畏・勇など揃わないと結局無理ですが)


行動のみでの善悪判断が不可の話は、随分前にも老人施設の建設の際、バリアフリー推しと
段差推しの話で例えた記憶がありますが、どこまで行っても重要なのは「心」にあるので、
言動は「二の問題」。中心にある心さえ軸と立てば、言動(従)は自ずと付いて来るから。


義務感が厄介な事も書いたけど、例えばボランティア等善行を施している人の心に、もし
それがあったとしたら、その部分を「偽善」と言う事の出来るくらい義務感って仮の姿だな。
って思うけど、同時に「心からそうしたい」事の神々しさ・尊さの浮き彫りにもなるよね。


また、「邪」の作用という観点からも少し書いておきたいと思うけど、外郭の目に見える形、
【言動の方に意識が向かい易い様に、こっそり仕掛ける見えない力】は、本質(心)から
遠ざけようとする働きの意味からも、それを「邪」の作用と言って差し支えない気がします。

しかも邪は、本人には気付かれない様、こっそりと潜む事からも判る通り、普段の意識の中
に見つける事が出来る悪想念なんて、実は大した問題ではなく、段々難しくなって来るのは、
無意識の領域(奥の奥)に潜んでいるからこそ、見破りづらく根深く厄介なんで。


静かに冷静に、心とじかに向き合われちゃうと、流石にバレる確率もUPしちゃうので(笑)
【心を感じない様に、感じない様に】とまぁ、それは巧みに意識を逸らすよう誘導しますわ。


逆に、だからこそ「改心」は、やり甲斐あるし、進んだ時の喜びも「ひとしお」なんですが。
御教えにも「本人は正しい事だと思いながら」の厄介さは説かれてあったと思います。

とにかく言いたいのは【心】に関しては【感じる】というのが【超重要】だという事です。


【感じる】の言霊は【神を知る】のと五十歩百歩に思いますが、神を知る・深く感じられる
心の成長(信仰向上)でしか、心豊かに幸せに成って行ける道は、他に無いものと思います。

また、【感覚】も【神を覚る】の意味があると思いますけど、実体験から実感として掴んだ
自分の得ている感覚を、他の人に「言葉で伝えきる」事の絶対的に不可能と証覚し得るのは

例えば武道でもスポーツでもダンスでも何でも、あらゆる分野に同じだと思いますけど、
「こんな感覚」とでしか表現出来ないし、所詮、言葉だけでは伝えきれないんですよね(笑)


結局のところは「相手の感覚に委ねる」以外に道は無い訳で【感じる力】に任せる他ない。
つまり、何をどう書いたところで「伝わる人にしか伝わらない話(笑)」までしか書けない。
しかも信仰マニア?(笑)な位じゃないと、ちょっと無理かも知れん、くらいに思ってます。

ただ、自分の出来る範囲としては、自分が掴んだものを自分なりの言葉として出して
どこかの誰かの「信仰の糧(きっかけ)」となれるように。って事ですかね。あとは惟神。


もう少しのハズが、また随分と長くなってるけど(笑)今回は一先ずこんなところで。

原罪のつづき 佐藤 孝

2022/11/13 (Sun) 09:10:11

【原罪】の、二つ用意されてあるという事は、童謡の「むすんでひらいて」じゃあないですが、

ちょうど東洋バージョン(火)と西洋バージョン(水)が、昔から「宗教」を通じて用意
されて在るという事の経緯(縦・横)を御経綸の一環と言わずして何と言うべきなのか。と、

まぁ、何とも神様のされる事のそつの無さと表現すべきか。万全で盤石な仕組みと言うか
何と言うか。見事にそっと開く為のヒントを仕込んでおかれたもんだよなぁ~と思います。


「禁断の知識の木の実(水)」の事だけを書いて「豆撒き(火)」の方を省略したからか、

話は薬の方向に向かいましたけど、仮に「豆撒き」の方でなぞらえてみた場合、

どの部分が薬に当るのか、

自分的にはちょっと符合しませんが、現時点では未だ見落としの可能性も考えられるし、
もし、繋がる部分に気付けた方が居れば、それは是非教えて欲しいと思います。


今の自分的には、二つ共に共通する部分が見出せれば、それを【解】と言っても良いのでは?
と、そんな風に思っていますが、あとは一先ず各々の捉え方(感覚)に委ねたいと思います。


それぞれの信仰の度合い、熱量や段階、今現在の立ち位置でのそれぞれの持つ使命、役割り。
そういう別々が必要であるハズの都合上などから考えてみても、みんなの答えが同じ「一つ」
であるという事の無意味さや、また、それぞれの感情も含め「興味」のあるなしなど。

本当に、率直に受ける自然そのままの感覚・印象が、一番ベストで正確だよなぁ、と心から
そう感じているので、是非皆さん自身の心地善い方向(感覚)に従って欲しいと切望します。


私はただ浄霊で解消可能な薬毒よりも、浄霊では解消不可な原罪の清算(業・カルマの清算)
に取り組む信仰が今の自分なので、「信仰は、それぞれみんな違っていてそれでイイ」事、
「間違っている事が実は間違っていない」事の、真に伝わってくれていたら嬉しいです。


以上、改心のポイントとなる【原罪】について、一先ず終わりたいと思います。

無題 佐藤 孝

2022/11/12 (Sat) 08:20:31

>それなりの必要があってのことなんだろ?

そうだなぁ。必要があっての事って言うよりも、その時点で思った事をそのまま書いた。
ただそれだけ。っていう方が自分の想いとしては正確かと思う。

あの時点で、ここまで(数回のやり取り)にまで発展出来る相手とはとても思えなかったし、
2チャンネル的要素を感じたというのも自分の中では事実だし、会話するなら先ずは
せめてハンドルネームが固定されていなかったら、

相手が見えない掲示板でのやり取りだけに、どこの誰だかも分からない。一回限りかも
だとか、真剣に向き合うまでもない相手の様に感じたから。というのもあるし、

また一方で、もし聴き耳が立つ様な相手(信仰者)であれば、私の文章から何かしらを
得ようとしている可能性だってゼロじゃないとしたら、

赤ちゃんの「はいはい」じゃないけど、それなりの向き合う姿勢と言うのか誠心と言うか
先ずはそういう心が見たかった。という感じかな、と思う。つまり打診的な?

だから、そんなに深い意味(必要があって、みたいな思慮深い想い)は無かったよ。


逆に訊くけど、

「次いってみよう はいはい まぁ、よくできましたっと」と投稿した時の

あなたの想いはどんな感じだったの?

逆にそれで?とは - ?????

2022/11/12 (Sat) 00:09:22

〉〉(45)Re: 次いってみよう 佐藤 孝 「はいはい」さんへ っていう事になる?のかな? あなたには、先ず「匿名」の「匿」っていう漢字の意味を 調べてもらったほうが良いのかもしれない。 もちろん、調べるも調べないも自由だし もし、信仰者であるならば。の仮の話なんだけどね? 2022/11/07 (Mon) 07:40:57

こう促したのは貴様だが?
促したにはそれなりの必要があってのことなんだろ?

キチンと回答してもらわんとな





白ぽっちさん 佐藤 孝

2022/11/11 (Fri) 08:21:18

どうもありがとう♪

本当にその通りに違いないと思う^^
だからこそ「発言」にも躊躇しちゃうんだろうしね。

それぞれに内在する義務感を刺激するイイ機会にはなったんじゃないかな、って思うけど、

また後ほど今の自分の思い含めて原罪のつづきをもう少し書くつもりです^^

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/11/11 (Fri) 07:33:06

>「宗教も科学も中途半端」には歯切れの良さを感じた(笑)

とても客観的な動画だったので、自分的には周囲の人に今後色々話をする上で参考になる話だったよ。

>意外とそこまで(浄霊拡大推し)
の想いが強い人って、自分のイメージよりもはるかに少ないのかな、

想いが強い人は相応して言動に出てくるから、
呼びかける人よりも呼びかけられる人の方が、普通は想いは弱いと想う。
つまり、言いだしっぺが率先するのが自然。

自分の例で言えば、一つの波紋の継続への想いがそれなりにあり、
でも誰かやってくれないかなぁという想いもあり、
しかし自分以外に積極的な呼びかけもなかったので、
言いだしっぺとして率先することにしました。
2回ともね。
もちろん、無理にでもなんでもなかったし、やってよかったと思っています。

まあ、呼びかけ人より熱い人を呼びかけられ人に期待するならば、
今後の行動に関してもっと具体的な呼びかけ、または指名してその人の心持ちを聞くなどしないと、
呼びかけられ人としては、普通になにもしないパターンが多いと思う。

呼びかけ人は、自分がしないまでも、一定程度先導はしないと、中々その話題は続かないんじゃないかな~。
自分から動かないからこその呼びかけられ人、だろうから。

無題 佐藤 孝

2022/11/10 (Thu) 08:03:51

>それで?

ん?何が? 一先ずそれ以上でも以下でもないんだが^^;
逆に。それで?


リーチさん、いいね♪やっぱそうだよね!
薬毒の非を深く覚れば自ずとそんな感じの展開になるのが自然だよな、って思う。

返し遅くなってごめんね、& 忙しい中ありがと!


他にも投稿あるかも?と思って少し待ってみたけど、意外とそこまで(浄霊拡大推し)
の想いが強い人って、自分のイメージよりもはるかに少ないのかな、ひょっとして。

それぞれがどんな想いで居るのかは実際に訊いてみない事には判らないから、言葉無しの
現段階では何ともだけど。もっと、もっと熱い想いが出揃っても良さそうに思っていたのは
自分だけなんだろか(笑)

まぁ、それぞれが明主様に対し引け目感じる事なく勇ましく過ごせてるならそれが何より。
無理に何かを語ろうとしたり動こうとする事(=体主)の意味の無さ、ってあるしねぇ。

とにかく自然体が一番と思う。終始無言が自然体ってのもまた妙な話だとは思うけど(笑)
体的正誤に縛られた不自由な心じゃ身動きしづらいってのもまた相応の理なんだと思う。


白ぽっちさん

田坂広志さんの紹介動画見ました。確かにちょっと面白そだね♪
「宗教も科学も中途半端」には歯切れの良さを感じた(笑)

「匿名」の「匿」を調べろ? - ????

2022/11/10 (Thu) 01:15:54

それで?












Re: 禁断の果実=薬 - リーチ

2022/11/07 (Mon) 13:08:34

東山さん、ありがとうございます‼️

佐藤さん、ありがとうございます‼️
素晴らしい経験をされておられるのですね。
日常に終われ、自己浄霊、信者への遠隔浄霊を時間かけてしておりますので、
長文は最後まで読めないことが多いですし、この掲示板での議論するには、時間的余裕がありません。
今、考えていることは、ネットを通して、未信者への遠隔浄霊を行う計画をしてますので、それが始まると、忙しくなると思うので申し訳ないですが、他の方にお願いします。

禁断の果実=薬 佐藤 孝

2022/11/07 (Mon) 08:08:41

東山さん、どうもありがとう^^

リーチさんもどうもありがとう!私もその御教えは読んだ記憶があります。ちなみに私は、
薬こそが全ての元凶であるという認識の、その捉え方まで否定する気は毛頭ありません。

リーチさんに限らずですが、同じ様な捉え方をされる信者さんは大勢いらっしゃるのでは
ないかと思っていますので、以下の文は、そんな皆さんに向けた言葉と捉えて下さい。


私自身も過去、医師を欺いて人工透析の一歩手前で退院して来たお陰で今がある経緯や、

また、長期不妊期間(約10年)の末、ようやく出来た、超大切な、生後半年ほどの長男が
超重度の(化け物クラスの)アトピーで、医師から

「今治療しておかないと大事な時期に内臓が育たず取り返しのつかない事になりますよ!」

等の猛烈な逆風に加え、女房方の両親からも治療の懇願があったり等、そういう困難に対し
一歩も引かず信念貫き通し、完全無治療(保湿剤すら使わず)を貫いて来たからこその今。
御守護戴けて来た経緯もある位なので、薬毒の害は十二分に体感・実感して来ています。

むしろ、その考え方に確信を持っておられる方々には、それに基づく実際の救いの展開を
こういう場で、より具体的に活発に、もっと積極的に議論されて行く流れを希望します!
実際の、現実的な救いの拡がりに繋げて行く為(目的)に。沢山の人達で、力を合わせて。

各々が、今の自分に出来る事。いや、今の自分にしか出来ない事。それに従事する事が
神に仕えるという事(御恩報じ)になるのではないか、と思っています。

【自分では「何一つ変えられない処」に意識を。余計な処に気を奪われている場合ではない】
と、私は常々、心底そう思っています。自分なりの一念発起が必要な時期であるなぁ、と。

どうかどなたか。どなたでも構いません。むしろ先駆けて立ち上がってくれるくらいの勢い。
【その信念を強く持つ方同士】でのスレッドを新たに立ち上げ、どんどん盛り上げて下さい。

そういう熱い【本物の信仰者】による【定まった信念の証】が見たいと思うし期待します!

あなたからの救いの手が差しのべられる事を待っている人が必ず居る、と思いますので、
未来のその方の為にも、明主様に仕える意味でも、どうか、是非とも宜しくお願いします!

悪と物質文化の発展 - 東山寿人

2022/11/07 (Mon) 07:43:35

明主様御講話 「悪が必要だった」 (昭和27年8月1日)
http://blog-imgs-53.fc2.com/m/e/i/meisyusama369/aku3BU.html

禁断の果実は薬のことであるという御教えは複数ありますが
薬によって悪を発生させ物質文化を発展させたということですね。

Re: 次いってみよう 佐藤 孝

2022/11/07 (Mon) 07:40:57

「はいはい」さんへ

っていう事になる?のかな?

あなたには、先ず「匿名」の「匿」っていう漢字の意味を
調べてもらったほうが良いのかもしれない。

もちろん、調べるも調べないも自由だし

もし、信仰者であるならば。の仮の話なんだけどね?

Re: 原罪 - リーチ

2022/11/06 (Sun) 18:58:46

アダムとイブの禁断の果実は 薬 のことである
と明主様はおっしゃてられたと読んだ記憶があります。

次いってみよう - はいはい

2022/11/06 (Sun) 15:54:08

まぁ、よくできましたっと

原罪 佐藤 孝

2022/11/06 (Sun) 10:04:23

ここで一旦【原罪】の話を少し書こうと思います。

【原罪】と言えば普通は、キリスト教のアダムとイブの禁断の果実(善悪知識の木の実)話
ですが、御教えでは国常立尊を押し込めた罪が根本という事で、こちらも原罪と思います。

アダムとイブのストーリー自体、概略は同じでも細かな違いなど(諸説)あるみたいです。
果実の正体にも、実は「いちじく」だった説、「りんご」説、「ぶどう」説、などあるらしい。

諸説あるにも、それぞれ理由はあったりすると思うので、結局全部必要だったりする様に
自分的には思っているところではありますが。(自分の中で結んで繋がるのは楽しい(笑))


他にも、木の実を食べた事によって「裸で居る事に恥ずかしさ」を覚えて「いちじくの葉」
で「腰」部を隠す様になったという話と、隠すのに必要な「皮」を神から与えられた説も。


また、エデンの園の「中央」には「生命の木」と「禁断の木」と「にほん」在った事について
何故?神は初めから罪の元となる様な「禁断の木」を置いたのか?その目的についても、
様々な考え方・捉え方などあり、ネット上で議論(質問?)されてたりもする様です。

一方、三千年の罪穢れの方の原罪に関しては、この掲示板に興味ある方は皆さん大体御存知
ではないかと思うので省略しますが、

「全ては必然である」という事の
(大神は全て承知で天国門を開く為のヒントをありとあらゆる処にちりばめてある)
その仕組み。大神の、毛筋の横幅も違わぬ魂の救済的御経綸を大前提として思うのですが、

大神は何故、何の必要があって、今日まで
これらの原罪話(おそらく寓話?だと思える話)を「宗教」を通じ、語り継がせて来たのか。

私的には、これら「両方のストーリー」が「天津金木」と同様の位置づけと言うか、役割り?
(解く為のヒントと言うかカギ)である様に、どちらも等しく重要であると感じています。


心の「中心」に善悪「にほん」ある様に、
エデンの園(天国)の中心にも重要な「き」が「にほん」生えており。
それから原罪話自体も「にほんだて」という、どれも「にほん」創りになっていますが、

日本の呼び名も「にほん」と「にっぽん」の二つあり、薄っすら正式寄り?で来てるのが
「にっぽん」の方であるのも言霊にも出ているというか、ゆ~っくり発音すれば判りますが
「にほん」在るものが最終的には「いっぽん」に成って行く様子。


双方兼ね備える完全さの意味で両方在って良く。ただ「最終的には」一極の一本で統一。
と成って行くという流れが本来、っていう事なのかなぁ~と思えます。
(注:私は普段、「にほん」と読むし発音もそうしています)

「にほん」又は「にっぽん」の、どちらが正式!と「固定されていない」現状に深さを感じる。


両方の手のひらを合わせる【合掌】も、全く真逆(対)に成っている両手あればこそ。

両手(各々の役割りある事)が双方に備わる事で良く。その両方を合わせて初めて拝む。
という(御来光を仰ぐ?幸せ?感謝の)型からも、そんな事を思ったりしています。


次回はまた今度の休みにでも書こうかな♪(気分次第なので未定ですが(笑))ではまた。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/11/03 (Thu) 10:55:00

今日はいい天気だ~。そしてさっそく読みました(笑)

『空く真』は面白いね。
畏れると恐れる、自分は両方ありそうだ。

まだまだ改心?の途中です。

邪神の改心には「無理」がある 佐藤 孝

2022/11/03 (Thu) 09:46:17

邪神や邪霊など、俗に言う曲津側の御役にある存在は、その存在の【必要性】からも、
絶対的に改心などしない。

しないと言うよりも、絶対に出来ない。と断言して差し支えない位にまで思っていますが、
そう思う理由には幾つかあって、先ずは【心の中心に誠を失っている】こと。

真ん中にあるハズの誠がポッカリ空いちゃってるから「空く真」なんだという様な話もあり、
誠を保った本物(霊主=善)にしか真の改心は成し遂げられない、という事が一つと、

そもそも【我が身をかえりみる心】を失うから邪と落ちたり慢心に陥ったりも出来る道理で、
当時曲がっていた自分自身を振り返りみても、どちらも当てハマり思い当たる節だらけ(笑)


かえりみる心と誠心。それから、何と言っても中心に信仰が無ければそもそも始まらない
という意味からも【神を畏れる心】の存在。神だけに、これが心の「柱」と言って良いかも。

そういう大事な要素が揃う事で改心が為せるのに、曲津の邪にソレらが揃う訳がない(笑)


逆に、それらが揃う事が本物の信仰者としての条件とも言えるので、更にもう少し書きます。


【神を畏れる心】とサラッと読んだ時の印象として、意味を取り違いしがちに思えるので、
念の為に添えて置きますが、断じて【恐れる心】の意味ではありません。

むしろ神を「恐れる心」こそが「邪の証」だったりする訳で(笑)

怖さゆえの改心はホンマものではない。と、確か日月神示だったかな?にもあったと思う。

何より、祝詞にも「畏み畏み」と常々唱えて来た訳だし。「畏む心」の存在っていう意味。

でも、これを誤認すると又、神と自分とを完全分離しちゃって本末転倒では申し訳ないので、

別の言い方をすれば【我が失を恐れる心の常中】と言い換えれるのかも知れない。
(注:「常中」=アニメ鬼滅の刃に出てくる全集中の「常中」の意味で捉えて下さい)


あとは、【現状の、これまでの身の過ちを全て丸ごと受け止める勇気】でしょうか。
それとセットになっている(↑が弱いと繋がれない)と思われるのが【恥じる心】の存在。


当時の自分は、自分の中に悪(心の汚れ)がある事にすら気付けていなかった程の低レベル
だったので、自身の状態を「恥じる」どころか、問題とすら思えていなかった訳で^^;

そもそもの段階からして、受け止める勇気の有る無し等含め、ソレら以前の問題でした(笑)


以上、特に重要と思いつく部分は大体それくらいかと思いますが、それらが全部揃わないと
改心には至れないくらい、長年の信仰者でさえ中々改心って難しいイメージはありますが。

でも、逆に言うと、それらが揃いさえすれば。又、そのコツさえ掴んで行ければ。(ニヤリ)

ちょっと嬉しい感じのワクワクな未来を感じて心が乗って来ちゃったので(笑)もう少し。


御教えの中に「二度目が本当」というのがありますが、日月神示にも「二度繰り返す仕組み」
というのがあります。また、世間には「三度目の正直」という言葉もありますが、改心にも
一度改心したハズなのに又繰り返す。はあって、だけどその二度目の時の衝撃はデカい(笑)

大抵そこで真の改心に至りますが、たまには三度目のパターンも。言わずもがな、三度目の
衝撃は二度目よりも更にもっとデカいので、コレを越えてなお繰り返すパターンは自分の
経験上にはありませんが、仮にもしそれがあるとしたら、

初発の条件のうちのどれかが欠けている。という事になるのだろうと思います。
(特に、勇の働きが弱いと恥の働きにまで繋がれない感覚はあるので、怪しいのはその辺り)


改心するのは身の為であるのと同時に人の為でもある。(つまり善い面しか見当たらない)
ならば、それは自から進んでやりたいと思うのか、それともソコは邪にやらせたいのか(笑)


教団の上層部ら(信仰上級者)が筵の上で土下座=審判の型(原罪の清算の型)が、
メシヤ様によって出されたと思いますが、これなんかも何かと合点がいきますよね。

自らをかえりみる心と、今(過去から)の自分をまるごと受け止める器(勇気)、それから
心の中心に誠(一厘)ある事、恥じる心に神に畏む心、それらが全て揃わないと真の改心に
至れないとすれば。末端信者(信仰初級者)の土下座では完全に意味合いが違ってきちゃう。


真剣に信仰を積み重ねてきた先に、ようやく改心の道(天国の門)が待ってる訳だから。
もちろん今更言うまでもなく、真の改心=原罪の清算ですから、大神の喜ばれるに違いない。


真の改心は自分の為であり人の為でもあり大神への捧げ(御恩報じ)でもある結構なもの。

自分で言うのも何だけど、この三拍子揃った改心のすゝめは、わりと名言かも知れん(笑)

結果としてまた超長くなっちゃったけど、以上です。

読んでくれてどうもありがとう♪
では、またそのうち^^

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/10/23 (Sun) 10:45:01

>「甦る」という字は「生まれ変わるではなく、更に生まれる」
>更生する・本来の輝き(恒星)を取り戻す

なるほど~。
漢字って本当深いよな、と思う。

新しく生まれる 佐藤 孝

2022/10/23 (Sun) 10:21:11

生まれ変わるのではなく新しく生まれる、という事について少し書いてみたいと思います。

人は神の器という意味からも、メシヤ様限定の事としてではなく、自分達の人生の歩みにも
それを重ね合わせる事で向上に繋がり活かせるという様な観点から書いてみます。

特殊な例として極稀に、前世の記憶があるという人も中にはあるようですけど、普通一般は
今生の自分しか知らず、転生以前の事など全く分からないものですが、それでもきっと
自分だって何かしらの生まれ変わりではあるのだろう、とは思います。記憶が無いだけで。

「生まれ変わる」とは、それ以前の自分とは全くの別人となる【前の記憶がゼロの状態】
そんな一般的な転生後的意味合いで受け止める以外に、ちょっと他には思いつきませんが

「新しく生まれる」事が、「それとは違う」のだとすれば
【過去の記憶】を持ったまま【甦る】の意味じゃないのかなと思います。

「甦る」という字は「生まれ変わるではなく、更に生まれる」と書きますが、
更生する・本来の輝き(恒星)を取り戻す、その「復活」の意味があるんじゃないのかなと。

復活とはいっても、ただ蘇る(蘇生する・私の例で言えば幽体離脱から戻る)的な
意味じゃなくて、「更生」だけに過去の記憶を全て携えたまま、次の段階への格上げ
(中身的には、本来の純粋無垢な心の立ち上がり&過去の過ちをエネルギー源とする様な)

要するに「一皮むけて」新たな段階へと中身の進化を伴った復活の意で、更に生き直す的な。
過去の身の過ちを受け止めきれるだけの一段大きな器(勇気)を携えて甦るという様な意味。
更生以前の自分の甘さを断ち切った甦りみたいな事が「新しく生まれる」の意味かなと。

過去をもう一度やり直す事は不可能だけど、過去の自分から眼を背けずに全てを受け止め
身の過ちは宣り直して(大本式)、過ちを記憶に刻んでソレを活かせる自分へと進化する。

そんな「心の改め」の流れが「改心」だと思っていますが、「新しく生まれる」と示された
意味も、「改心後」つまり180度転換した己というものを表現されておられたのかなぁ、と。

改心は進めば進むほどに自然と人格の向上も伴っていく。

本物の信仰者なら改心せず(新しく生まれず)にはおれないでしょう。と私は思う(笑)

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/10/16 (Sun) 10:42:32

>「信仰が年々深まって行く事」でしか人って救われない

自分の浄化をキッカケに実感中。

秀明に所属していた頃は、ゆる~く神様と繋がって、無病息災に生きられれば、という人生観だった。
秀明独特の厳しさを一面では評価しつつも、がっつりは関わりたくなかった。
秀明≒神、のようなものだったので、神様に真向かっていない、どこか逃げている、という心境だった。

しかし、年を重ねて無病息災とはいかなくなった時が、
その人の信仰が深まる(べき)タイミングの一つ。
秀明の恐怖信仰から離れて十数年後、自分にそのタイミングがやってきた。

自分で気付く部分と、人との交流によって初めて気付く部分。
そしてそのタテヨコの結び。

何につけ、いづのめを感じるようになった今日この頃です。

体主(悪)から霊主(善)への転換 佐藤 孝

2022/10/16 (Sun) 08:58:16

もう十年以上前の体験になりますが、ある方と出逢って対面で会話をしている最中に
【自分の考えている事、思っている事など、まるごと見透かされる】を体感しました。
これは、中々体験してみない事には実感として伝わりづらい感覚ではあると思うのですが

その時正直、率直に【怖いなぁ】と感じました。

あとになってから、何故怖いと感じたのか?をあれこれ思い返しながら精査してみると、
自分の中に表面とは違う別の心、二枚舌ならぬ二の腹とでも言うような存在があり、
(バレたら自分にとって不都合な、面と向かって堂々とは言えない、引け目感じる様な心)

心言行の一致からズレた別心の存在が原因なのかも知れない。と思う処に至りました。

それ以前にも、よく信仰者同士の会話として「明主様は何もかも全てお見通しだから」
みたいな事で語り合う機会は幾度もありましたが、その【「全てお見通し」というもの】を
実際に実感をもって体感したのはこの時が初めて。

ただの会話上のそれと、実際の体感とでは雲泥の差がありました。天と地ほども違ってた。
本当に丸裸にされた様な感覚でしたが。でも、思ってみれば死を境に結局は丸裸となって
行くという未来が確定しているのに、いつまでも体を隠れ蓑としている心の存在って?

そう思うと、確かに体を主体とする現界に於いての良さみたいなものは確認出来ましたが、
それ以上に深く実感したのは、

あぁ、体主はどこまで行っても体主なんだなぁ。霊主を目指すのが本来なんだなぁ、って事。

私の中で「改心」を目指す志が芽生えた一番の大きなきっかけはソレだったと思います。
簡単に一言で言ってしまえば目指すゴールは【二面性からの脱却】という感じでしょうか。

自分の腹の中にあるものを、いつ・誰から、どの部分を見られても恥ずかしくないくらいに。
堂々と胸張って誇れるような自分に成ろう!と。成りたいではなく成ろう!と決めました。

まぁ、要するに「水晶のような心」と成って行こう。という事にもなるんだと思いますが。

救世教に入信してから、数々の浄霊体験・奇跡も体験し、御教えもそれなりに読み込んで
薬毒の非も深く覚り、それ以前とは大きく(180度)転換し進んで来た自分の中に、色々と
信仰者らしからぬ、人には見られたくない様な、堂々と胸を張れない様な想いが内在してた。

自身の悪想念に特に注意深く意識を向ける様になったのは、この頃からだったと思います。
その辺りから、かれこれもう十年以上は経っているので、だいぶ磨き上げて来れましたが

宗教と信仰との違いとでも言ったらイイのかな。魂レベルの話として、段々とハッキリと
観えてきた事は、どの宗教に所属したから救われるだとか、どこの宗教の教えを信じたから
救われる等という、そんな依存で通り抜けられる様な生易しい道では無かったんだなぁ、と。

天国入りへの道(天神様の細道)っていうのは本当に狭き門だったんだ。
「信仰が年々深まって行く事」でしか人って救われないんだな、という事など実感しています。

覚りなくして感謝生まれず。という事なども改めて真理だなぁ~、って思います。

Re:うんさん 佐藤 孝

2022/10/12 (Wed) 07:56:44

失礼なんてとんでもないです。

お陰様で、かえって最短のワンターンでお互いの想い(両極)を共に理解し合えるという
本物の信仰者同士が出揃わないと中々成し得ない「和合の型」とでもいうべきか、

教団が未だ成し得ない融合の証みたいな、とても貴重な現象の一端を確認させてもらえて
ホント嬉しい限りです!マジでお陰様です!どうもありがとうございました!

今後もまたもし何か思う事などあれば遠慮なく、是非とも宜しくお願いします(拝)

Re: 改心 - うん

2022/10/12 (Wed) 02:40:25

あぁなるほど、こちらこそ現生に囚われていましたね。
失礼いたしました。

言霊が一緒のものは共通の意味があると言う御教えもありますので、
リョウシンでやはり何かしら同じ意味合いがあるのかも知れませんね。

Re 佐藤 孝

2022/10/11 (Tue) 23:24:00

>すいません、違います。

あぁ違ってたのね。教えてくれてどうもありがとう。


うんさん

>両親は現生にいる以上

生と死の区別はハッキリさせておいた方が、より現世的で現実的な親子関係の問題など
に対しても、確かにより向き合い易く、煮詰め易い?みたいな面はありますね。

面があると言うよりも、むしろ超重要で必要な大事な事か。現世に生きてるんだから。
この親に対して自分はどうあるのが最善なのか。みたいな想い煮詰めて行くにしても。

何より御教えに「行いは必ず小乗でなければならん」という太鼓判もあるしね!



もし他にも実際にそういう状況におられる方には、私が端的に書いた「両親(良心)」が
実際の現実的な両親への取組みの邪魔になってしまっていたとしたらごめんなさい。

目には見えない心の話をメインで書いている都合上、どうしても生死の区別ない広い意味
で書く感じになっちゃうので、もし出来ればそこはあまり気にせず、御自分の思うまま、
全集中で真正面から事に当って欲しいと思っています。むしろ応援する気しかないです!

前の掲示板では、現世的行動寄りの「悪のすゝめ」的な事を書いてきたつもりなんですが
今回は少し伝えようとしている内容が違うので、往々にして誤解を生み易いかと思います。

何か違和感・逆意見などあれば、今後も皆さん遠慮なく宜しくお願いします。

Re: 改心 - 補足説明

2022/10/11 (Tue) 22:03:13

> 先日のワケワカメの方?かな?

すいません、違います。

うんさんがおしゃってるように、毎日浄霊を徹底していれば
気付きやすくにもなりますし、トラウマや悪想念も消えていっているなあと感じます。昔は引っ掛かっていたことが、どうでもよくなってきたりしてることがあります。思考がシンプルなるという感じです。

Re: 改心 - うん

2022/10/11 (Tue) 15:28:37

佐藤さんの文章は全部読みきれていないのですが、私なりの改心について書かせていただきたいなと。

改心はなかなか出来るものではないですね。
その昔国常立尊を艮へ押し込めた罪と言われても、は?知らんけど、となるのが積の山。
実際外から見て明らかに罪の多そうな人でさえ、本人からすればなんのこっちゃ分からない。

明主様が目の前に居られたらどう?と言うのは確かに実際的な効果はあると思います。やはり人様に顔向けできないような事、神に後ろめたいことがない状態と言うのが目指すべき状態です。

ただ自分で気づくと言うのは、人に言われてそうなるものでもなく、自分で気付こうとしてもなかなか気づけない。
何年も苦しんで、ようやくこうだったと気づくのが大体のパターンです。
あぁ俺もバカだった、と後になって改心するパターンですね。

ただそう言ってしまうと救世教の意味がないので、やはり救世教的に改心を説くならば、やはり浄霊でしょう。
まず熱が取れれば頭がスッキリし、物事を考えられる。
詰まりが解消され血流がよくなれば、健康的な心で物事を考えられる。
祓戸の働きを持つとされる腎臓が光を浴びれば、魂の向上と全身の浄化力強化により気付きやすくなる。

こうした所ですかね。

Re: 改心 - うん

2022/10/11 (Tue) 15:12:53

佐藤さん

>人は誰でも原点に立ち還り遡ってみれば両親(良心)
に辿り着いて行くものじゃないかと思います。

細かい部分しか発言しなくて大変申し訳ないのですが、両親と良心を一緒にするのは如何なものかと思います。
良心は正守護神、つまりご先祖さまのお働きと存じますが、両親は現生にいる以上副守護神の働きも含まれますので、一緒にするのはどうも良くはないのではないかと。
さらに良心を本守護神とすると、訳がわからないことになってしまいます。
確かに言葉的にはリョウシンで一緒なのですけどね。

ちなみに信仰のパターンとして、子供が熱心な場合、子供の霊層界が比較的上層に上がるため、無信仰者と比べて親子の霊層界の距離が大幅に離れてしまう、と言ったことも多いかと思います。そうした意味もあり、両親と良心は一緒にするべきではないかと。
世の中、両親が子供を悪の道に入れる場合もありますからね。

Re: 佐藤 孝

2022/10/11 (Tue) 08:04:13

>今の自分には必要ないということにした。

先日のワケワカメの方?かな?(だとして)
読んでくれたんだね、どうもありがと~。

ちゃんと自分の意思を持って、そうやって決めてくれる人ばかりならイイんだけど、
人の言葉に振られちゃう人が多い(と思う)中、どうやって自分の想いを表現して行こうか結構考えた。

でも結果として、自分は技法とか手段とか、作戦みたいな事を考える能力があまり無いから、

周りの事は必要以上にあまり気にせず、自分なりに思う事書いて行けば
きっと誰かがフォロー的な意見とかくれるだろ。位に書き始めてみる事にしました^^

そんなわけで、minoruさんもですが、どうもありがとう♪

Re: 改心 - 補足説明

2022/10/11 (Tue) 05:18:30

うん。改心.自分的にはあまり良い意味では感じないかもね。でもそこにあまり深く考えない。ということは今の自分には必要ないということにした。

うん。助言されても、自分で気づかなかったら意味がないなあと思う。
まったくの助言なしで、要するに こうではないか?あーではないか?とは言わずに、あまりしゃべらず、相手から自ら気づかせ答え出させる技法話術を持った人がいて、凄えこの人と思ったことがある。あれ何でしょうね?その人と会話してると、皆、気づきがおきるんですね。不思議です。謎です。

Re: 改心 - minoru

2022/10/11 (Tue) 03:01:41

>学校教育の弊害なのかな、っていうのは思う。

害だと一口には言えませんが、近代からの学校教育に大きな問題がありますね。
同様の価値観や義務感を擦り込み一様化した固定観念を培うためだと考えます。
また、日本人の霊性が関わっているのかもしれませんが、変に直感だけは鋭く、その場の空気を読むのが得意な人が多いようですから、その辺りにも学校教育が影響を与えているのでしょうね。

改心については、それほど深く考えた事はないですね。
まあ、助言されて、というよりは自分で気付くということが重要だと思います。

どんな自分でありたいか 佐藤 孝

2022/10/11 (Tue) 00:33:27

明主様(メシヤ様)が、今、あなたの目の前に居られたとします。(想像してみて下さい)
改心(かえりみる)と真向かえている状態の自分。それから改心とは無縁である状態の自分。
(事の良し悪しは別として、ただただ「意識の状態の違い」で別けただけのものです)

【どちらの自分でありたいですか?】
神に恥じる事なく引け目なく、堂々と胸張って笑いながら真向かえそうなのはどっち?

答えは訊かずとも明確に判りきった質問ですが、大神と真摯に向き合う・真向かう姿勢
その想念・意識が、それ相応に、本来の自然体の自分というか、自分の奥に元々眠っている
善の本質に触れさせて戴けるような、神性目覚めるような感覚があるとは思いませんか。

因みに、例え思わなかったとしても、それはそれで様々な世界観がある事は知ってますから、
それこそ、もし昔の自分なら「何を聖者みたいな絵空事語ってんだ、このクソが」くらい
にしか思えなかったと思うので(マジでそんな次元、神仏との感応ゼロ状態でしたから)

しかも、そのクソ(笑)が、イコール自分自身だったという鏡合わせのオチまでついて来る。
気付いた時には笑っちゃう事実だけど、その時点では決して笑いごとじゃなく至って本気。
(前に書いた、綺麗な花畑での私の想念を参考にしてくれれば↑理解できると思います)

ただ、勘違いして欲しくないのは、そう思うのが正解で思わないのが不正解だとか、そんな
低次元の「正誤の意味」で書いてるつもりなど全くないので、其処はくれぐれも宜しくです。

「感応」には、どうしても順序とか段階とか、避けては通れない歩みが必要と思います。
自分の古い過去からの歩み一連を振り返ってみても、それは本当に実感する処だし。

この「感応とか覚り」の部分は、絶対に言葉では表現しきる事が出来ないものと確信します。
だからこそ内側に「感じる」(神知る)こと「感覚」(神覚る)などにより深まって行くんで。

そういう尊い目には見えない領域(希薄)にあるものだからこそ、その答えを自分の外側
(目に見える濃い部分=体)に求めていても、永遠に掴めそうで掴めない。だけど、反転

自分の内側をよくよく探ってみたら、何だ、ココに答えがあったじゃないか!みたいな(笑)

答えは自分の中にしかない。っていう事は以前にも何度か書いたと思うけど、こんな
外側に正解を見つけようとしちゃうクセも、学校教育の弊害なのかな、っていうのは思う。

勉強の答え(正解)はいつでも外側にあったからねぇ。多分その答え合わせ的な感覚?が
習慣づいてて、しかもソレによって安心感を得たりしていた部分も少なからずあったろうしね。

考えるな、感じるんだ。みたいな言葉がどこかにあったよね。心で感じるって結構大事。
勉強脳と信仰心(ごころ)との違いというのかな。感じるって心でしか出来ないものだし、
感じたもの(其の一)を体現して行く為に脳(頭)を使う(其の二)の順序ってあるだろうしね。

そういう所にも体的と霊的な働きとか役割りの違いってあるのかもなぁ。

【どんな自分でありたいか】っていうこの大事な部分は、絶対に自分にしか解らないもの。
自分で掴んだその感覚に正誤なんて(善いも悪いも)ない。人と比べるものでもない。

そこを感じつつ進んで行く事が、着実に一歩いっぽ足元確認しながら大地を踏みしめ生きる
充実感みたいな処に繋がっているような気がする。

とりあえず今回はこんなところで。 またそのうち^^

Re: 改心 佐藤 孝

2022/10/10 (Mon) 10:51:17

>同時に、義務感からの行動もお許しかな、と。

>最終到達点に義務感はいらないけど、
>過程ではアリ。

もちろんその観方・考え方には大きく同意です!

>秀明というより、自分に元々生い立ちからの

ナイス分析と思います。

白ぽっちさんに限らずですが、人は誰でも原点に立ち還り遡ってみれば両親(良心)
に辿り着いて行くものじゃないかと思います。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/10/10 (Mon) 09:55:44

>義務感を強く根付かせておく作戦(笑)

なるほどなぁと思う。
同時に、義務感からの行動もお許しかな、と。

最終到達点に義務感はいらないけど、
過程ではアリ。

義務感を持った現状は肯定しても、
有るべき姿ではない、ことはしっかり認識しておきたい。

自分が今正にそういう感じ。
義務感信仰は、秀明時代で終えたつもりが、
三つ子の魂百まで、
そう簡単に、抜けないものだと実感中。
秀明というより、自分に元々生い立ちからのそういう素養があるのかもしれない。
だから、逆に秀明に縁付けられた、と考えることも出来る。

義務感嫌いな人が、カルト布教時代の秀明になじむわけないしな~。

改心 佐藤 孝

2022/10/10 (Mon) 08:45:23

>広く深く

大神の御心をそのまま自分の心と真釣り合える位にまで覚れる様に、が目指すゴールなら
多分そういう事になるだろうとは思う。確かに無謀とも思える様なゴールではあるけど(笑)
この世での寿命が尽きるまで、時間を掛けながら少しづつでもより近づきたいもんだよね!


真の改心に至れる喜び。【浅はかで愚かな自分の状態を延々と繰り返す処から抜け出せる】
その素晴らしさっていうのが、目には見えない心の変化であるだけに、とても伝わりづらく
なかなか共有・共感出来づらい性質のものである事は、日々日常でも感じる場面は多いです。

逆に、数こそ少ないですが共有・共感し合える場面もあるからこそ、それを励みに諦めず、
頑張って邁進し続ける事が出来ます。この歓喜・感動は本当にありがたく、心震えます。

一つだけ明確に言えるのは【心の落ち込む様なやり方】では、真の改心(=喜び)には
至れない。という事ではあるのですが、その前に先ずは「改心」の印象を確認してみたい。


「改心」という言葉を聞いた瞬間の、率直に受ける印象も人によって様々かと思いますが、
皆さんはどうですか?改心とだけ聞いた時に、どんな印象を持っていますか?

先に改心の善さを少し書いちゃってからの質問になっちゃってるから、元々のまっさらな印象
とは変化して来ちゃってるケースもあるか知れないけど(ごめん、汗)

その多くは余り明るいイメージを持てて居なく、自分の中にある罪悪感が倍増しそうな?
自分自身の心と向き合う事で益々つらくなってしまう様な感じの人は圧倒的に多いです。

この要因は責め咎めの心、人を裁く心がそのまま自身に反映する事によると考えてますが、
つまり、外側を責め裁く時のその想念をまんま自身の内側に反転して向ける事となるので、

少し極端に言ってみれば「土下座して詫びろ!この愚か者めが!」的想念をその勢いのまま
自身の内面に向かって「ぶっ刺す」ようなもんで、イメージしてみるだけで心が痛そう^^;
「かえりみる」という作業は、意識を外側にではなく内側へと向ける作業ですからね。

子供の頃にありがちな例で言ってみれば、ようやく宿題をやろう!と思えた処に親から
宿題しろと言われた途端に、一気にやる気が失せる様なもんかな。これを自分の頭の中で
独りで両役やってる感じ。内在する義務感って言えばイイのかな?義務感って厄介(笑)

「改心しなければ」の心が止まない限り。改める「べき」だとか、改めなければ「イケない」
的な、義務感や強要?戒律で縛る様な心止まない限り【その気は失せる】ものと思います。
これ等も「邪神」という表現を借りれば、大好物・絶好のチャンスの様な気はしませんか。

題して、義務感を強く根付かせておく作戦(笑)

邪神の立場に立って考えてみれば、何しろ要点は内面の成長、精進したい欲。その心さえ
封じておく事が出来れば、あとは枝葉の問題じゃあないのかな?と、そんな気がする。

体主に偏るほど、見た目に振り回されるものだから、外側の現象にさえ意識を向けさせて
おけば、それだけで目的は半ば達成出来たも同然。って感じじゃあないのかなって思います。

もういっちょ、題して 意識を外側に釘付け作戦(笑)

逆にその計画を見破って一枚上手を行く為にも、先ずは「改心」の印象・その勘違いを解消したい。

とにかく改心に対する漠然とした重いイメージを、もっと鮮明に明確に、明るく軽く善い印象へと転換
出来る為のきっかけ作りが、今自分がやりたいと思っている事です。

改心を幾つも積み重ねて行く信仰の歩み(かえりみる)こそが何物にも動じない真の幸せ掴める素だから。

もちろん一旦掴んだその宝は、死んだあとまでず~っと生かされ続けるしね♪

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/10/09 (Sun) 23:32:57

広く深く、ってのは現実的に難しい。

広く浅く、か
狭く深く。

>ワケワカメ
俺は結構理解したつもりだけど、
理解しない人もそれなりにいるだろうな、とは思う。

自分が理解できないものに出会った時、って
悟り・学びのチャンスではある。

内容に興味ない時に内容を無理に理解する必要はないけど、
この人と自分と何が違うのか?を
ちょっと考えるだけでも、
主観と客観の良い学びになると思う。

そうねぇ~ 佐藤 孝

2022/10/09 (Sun) 14:04:50

宣伝っちゃあ宣伝になるのかなぁ。

散文とか、しないように心掛けているのにコレだからね(笑)

多分、伝わらない人にとっては全く伝わらないような話をこれからも書いて行くつもりなので、
もし少しでも興味がある様なら、ちょっと気長に付き合ってみて下さい^^;

無題 - 何かの宣伝·勧誘ですか?

2022/10/09 (Sun) 12:28:24

散文しててワケワカメ、何が言いたいんですか?

改心 佐藤 孝

2022/10/09 (Sun) 09:39:32

「改心」って、イメージ的にわりと多く「懺悔」と混同し易いように思っていて。尚且つ、
その懺悔のイメージがまた更に「卑下」する感じ?にまで自分を低く落とし易く。
肝心の中身を落とす事が、結果として改心から遠ざかる。そんな勿体なさを感じています。

元々価値ある存在
(神界・霊界・現界の三界の統一者?天界の様相を地に顕現・反映させる事ができる)
唯一の尊い存在=人であるに関わらず、最下級的な位置づけに身を置く設定?大前提?が
在ると、それが反って「向上出来なくても致し方がない」だとか

自分の中に少々悪い部分があったとしてもソレもしょうがない。変われないのも無理ない。
だってこんなに低い自分だし。みたいな、諦めの理由(言い訳)に利用出来ちゃうから厄介。
善い行いで、その未熟さを相殺しようとする善悪の比率(善が多ければよい)論に私は反対。

少し表現を変えれば、邪神・邪霊等は、そんな部分にも潜む・喜んで付入るものと思います。
【中身の立派な人格者で世界が埋め尽くされる】のを阻止しようとする働き=邪だから。
 
立派とは体的面の優秀さ・向上の意味じゃなく、霊的・精神面の向上(目には見えない方)
【心の使い方の磨かれた状態】の意味です。そっちの向上心・精進欲さえ阻止しておけば
邪霊・邪神は安泰でお手柄の意。全て原点(急所)は霊の(目には見えない)方に在るから。

卑下=慢心という構図は御教えにありましたっけ?仮にもし無かったとしても、
【人】という神の芸術を、低く見る・捉える段階で失礼甚だしい態度である事に違いはない。

先日投稿した過去の私自身とカブる部分(体主の特徴)として、とりあえず卑下しておけば
慢心状態にある様には見られづらい。信仰者っぽく見える。等のメリットはあると思います。

まぁ、要するに、卑下には特に意識的に気を付けて。という事が一つ言いたかった事と、
何より「改心」の素晴らしさをとにかく伝えたいと思っているので、悪いイメージを一掃し
より多くの人が改心したくなれる様な、そんな善きイメージの風を吹かせたい^^

Re: 白ぽっちさん 佐藤 孝

2022/10/03 (Mon) 08:07:57

朝から嬉しいコメントをどうもありがとう!

そういう期待のされ方って、益々勇気をもらえるよね!

期待に応えられる様に、これからも一生懸命頑張ろ!って思います^^

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/10/03 (Mon) 01:41:15

>ノンストレス化

一つの大きな改善。
もう一つ、後から見る人用にテーマ別整理。
この2つの改善には満足しています。


>浄霊での病気治し【不思議な力】に魅せられて神の実在を知って行く

自分は、神の実在を疑っていないけど、
信じている、とはちょっと違うように思っています。

神との距離感がある感じ。
まだまだ勉強・経験が必要そう。
眼の浄化も、間違いなくその一端だと思っています。

>心意気と言うか勇ましさまで備えられるような段階を迎えられました。

素晴らしい。本当に。
タカシさんのコメントには、奥歯に詰まったような感じを受けることがないです。
本当真っ直ぐ。

これからも、気が向いたら遠慮なく長文でもなんでも期待しています(笑)

長文です。 佐藤 孝

2022/10/02 (Sun) 11:24:20

私の長文を読みたくない人が読まずにいられるという今回の掲示板のノンストレス化は
白ぽっちさんが進化(想念を具現化)させてくれた賜物だと思います。ありがとう!

あぁ、そうか、そゆことか、長文でも迷惑にならずに済むんだ。おぉ~!って、
ちょっと前の何処かに書いてあったのを読んで初めて、改めて真に理解しました(遅っ)

という事で、心置きなく遠慮なく、持ち前の長文(いや、超長文)になりますけど、
早速、幽体離脱体験から得た事、思っている事など書いてみたいと思います。


経験・体験から得たものって、全てが無駄なく実に成る、自分のものに成ると思うので、
そういう意味で経験・体験の素晴らしさってあると思います。また、自分が体験できない
何かを、別の人はしているものだと思うので、体験の素晴らしさは誰にでもあると思います。

私にとっては素晴らしく貴重な体験でしたが、でもこういう稀な?ケース、特に霊的な体験、
超奇跡的な体験などもそうですが、そういう特殊な体験の必要があるという事は、

個人的な信仰面に於いて、まだまだ学んで行くべき伸びしろが大いにある段階、もう少し
細かく言えば、中身が体主寄り・つまり曲津寄りの粗さに対して、高級神霊の希薄さでは
到底呼応しえない・感受不能段階にある人間にしか与えられる必要がないものと思います。

普段目には見えない部分にこそ重要で大事な学びに繋がる・幸せに繋がる宝がありますが
体主だけに、まだ「実際に目で見て確認する」事でしか気付く事が出来ない段階にある人
限定のものというのか。

浄霊の入り口も大抵の場合は奇跡を「目の当たりにする」事でしか神の実在を認識できない。
多くのそういう人達に【目には見えない処にこそあらゆる素がある】という事を知らしめる
為には、先ずはどうしても現象による「目に見える形」で示し導くより他はなさそうです。


掲示板の2のほうでも少し書きましたが、信仰を持つ以前の私は本当に「人でなしのクズ」
(つまり中身が獣以下)でした。何がヤバいって、外見を悪人と見られないように出来る事。
腹の中では表面とは真逆な想いがあっても、肉体を隠れ簔としてバレない様に振舞えた。

とにかく見た目重視で中身がどうであろうとも関係ない、どう振舞うかの体的行動が重要。
だから「体主=悪」ってのは、本当にその通りだと思います。見える部分(体的面)が大事。
あからさまに見た目悪人のほうがよっぽど善人だよ、ってのは凄く思う(笑)

あの幽体離脱体験が無かったら未だに霊界や神仏の実在を認められなかった様に思います。

面白いのは、離脱体験によって霊界の実在を体感したにも関わらず、その後信仰に縁した
21歳まで(の5年間くらい?)【霊界の実在】は信じれたものの【神仏の実在】については
相変わらずの完全否定。

無神論者のまま(中身が獣)で居続ける事が可能だったという事実(笑)

だから人は霊界の実在を知ったところで向上できるもんじゃない。前投稿でも書いたけど
霊界の実在を知る事は、せいぜい死に際して自分の死を覚れるの遅速に影響する位なもの。
どうしても人は神仏の実在を認識する必要があります。真の幸せを掴む(=中身が神に成る)為に。

これなども自分の体験によってハッキリと確認する事が出来た得た真実、生きた事実です。

何なら幽体離脱の際、一緒に神仏が出て来てくれてたら一気に霊界の実在も神仏の実在も
両方とも信じれたろうに(笑)なんて思うけど、

そうはならなかった理由も今になって改めて思ってみれば、

目に見えるものしか信じれない体主=悪(肉体だけが頼り)の当時の自分が、一度この目で
自分の外側に神仏の実在を見てしまったら、神仏の実在は信じれるものの。神仏と自分とを
全くの別次元扱いとして外側に明確に切り離したままの捉え方が固定になるかと思うので、

今度は逆にその固定観念が邪魔をして中身の自分が神に成り上がれる事の理解に繋がりづらく
なってしまうから(それが神仏が姿を現さなかった理由。つまり御加護)という気がしています。

因みに、偶像崇拝を禁止する宗教の真意というのも、そこ(神と人とを完全に別けて捉える固定の危惧)
にあるだろうと思っています。人の肉体は本来、神(神性・神心)が宿る為に与えられている器。

その部分【自分の中身が神に成り上がるを目指す尊さ】を見失ってしまっては、せっかくの信仰も本末転倒。

当時の自分を今に導く為には、体主のバカにでも分かり易い様に霊界の実在を「見せる」必要があった。
で、見たから理解出来た訳です(笑)レベルの低い自分相応の御守護。

必要最低限の霊界の実在を見せるだけに留めておいてもらえた事も神の御加護でした。

その後浄霊での病気治し【不思議な力】に魅せられて神の実在を知って行く事になりますが
昔、他人の思いに寄り添うという事がほぼ皆無だった自分が【浄霊という力】を通じて、
人を救う事に喜びを感じ初め。他人の思いを理解して寄り添うという逆体験を数々積んで行く内に

いつしか気付けば花が綺麗に咲き誇る感動の世界に住む事が許される様に成り。
今では自分に災いをもたらす邪神・邪霊さえも自分に縁あって来るものならば拒む事なく
共に浄化して参りましょう(笑)くらいの心意気と言うか勇ましさまで備えられるような段階を迎えられました。

結局のところ、如何にどれだけ多くの人の真の幸せを深く想う事が出来る人と成れるか。
相手の事を我が身の事の様に思える心のあるなしが重要っていう事じゃないかと思います。
その想える深さ(=神の位)については追々と時間を掛けながらだとしても(笑)

先ずは目の前から。時間を掛けて拡大してく。自分の心を神心にまで育て上げて行く取組み。

以上です。最後まで読み進めてくれてどうもありがとうございました(拝)

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/28 (Wed) 10:58:55

横から思うこと。

>かれこれもう延べ
軽く10時間以上は建築屋さんの投稿文と向き合っています。

相手の想い・動機を完全に正確に理解することは、(特に掲示板だと)限界があるので、
自分だと、一定の時間を取った後に、現時点での自分の想いをそのまま書きそうです。

その上で、求める心があればあるほど取る時間は増えるので、
『求めよ。さらば、与えられん』
その労力に応じて悟りも進みそうです。

建築屋さんやタカシさんの投稿には、いつも(自分は理解していないながらも)深さを感じていましたが、
その裏には費やした時間、というものがちゃんとあった、
という、知れば当たり前のことですが、それを確認できてよかったです。

一歩一歩、向き合った分だけ成長できる。
年齢を重ねても、昔知ったことのアウトプットばっかりするのではなく、
常にインプットしていきたい。
宗教に限らず。

Re: 建築屋さん 佐藤 孝

2022/09/28 (Wed) 07:58:49

>幽体離脱を経験されたことが素晴らしい
>経験されたことから導き出される意味合いは違うと思われませんか?

昨日も一昨日も返答を返したくて、何度も何度も繰り返し読み返し、かれこれもう延べ
軽く10時間以上は建築屋さんの投稿文と向き合っています。
でも、どうしても何を言わんとされているのかがちゃんと理解しきれない(汗)

【意味合いは違う】という、その肝心な部分「意味合い」の意味と、それからその「違い」
という事の意味が理解・消化出来ずにいます。何がどう違うという意味なんだろうか。
そこが腑に落ちないまま「思いませんか?」の問いには返答のしようがない。って感じです。

最初の投稿でも【違い】について【どう思うか】を問われました。共通して導き出せるのは
「違いを思うか思わないか」私の考えを問われている?のだろうとは思っているのですが。

建築屋さんの中では、比較する何かと明らかな違いがあっての話なんだと思いますけど、
【その「比較の対象となっているもの」それは何ですか?】何と比べて違うという話なのか。

ひょっとすると、ですが。建築屋さん御自身が、無意識のうちにそこの部分を明言する事
を避けてしまっている?のかな?とか、又は、明言するしない以前に御自分でもその部分が
一体何なのかがハッキリしていない(ぼやけている)状態?だとか?ではないですか?

その何か漠然としたもの?に対して共感を求められている様な印象を受けたりもしています。

自分なりにシンプルに考えてみると、「経験した事が素晴らしい」という事は、その反対側、
「経験していない事は素晴らしくない」という内容にも繋がりそうですが、たとえば

経験している自分は【経験していない人と比較して】何処か優れている?例えばですけど、
幽体離脱を経験した自分は特別に神から選ばれし者。的な?そんな捉え方、そんな意味合い
を感じての問いかけ「経験無い人と自分とでは何処か違いがあるとは思いませんか?」

そんな「特別感」的な意味合いの様なものの有無?を私に問いたくて、の投稿でしたか?

又は、このやりとり以前からの私の投稿に、建築屋さんの中で何かしら共通している様な
感覚などあって、私に共感を求める様な想いから?だったりするのでしょうか。

どんな想いから始まった投稿だったのか、建築屋さんの想いを未だにハッキリと受け取る
事が出来ていません、ごめんなさい。

それ(建築屋さんとの、このやり取り)とは別にまた後日、私自身のこの体験・経験
について自分なりに思っている事など改めて書いてみたいと思います。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/26 (Mon) 00:34:30

>白ぽっちさんは要点を捉えてくれたみたいで助かったけど

いや、廻向知らなかったので調べてみようと思いつつまだしてないだけでした。
参考になりました。

御教えか何かで
『一番の先祖供養は子孫の徳積み』
って言っていたし、

>自分自身が益々御神業に専念する事

は同じことだと感じます。

Re: 改心 建築屋

2022/09/25 (Sun) 13:14:23

佐藤さん有難うございました。

>違いについてどう思うかという事ですから、
 二つを理解した上で比較する事が必要になるかと思いますが、
 逆に、魂に関係しない死ってあるのかな?とかも思ったりするので

私は幽体離脱を経験されたことが素晴らしいと申し上げております。

経験してもしなくても死は同じかもしれません。
しかし経験されたことから導き出される意味合いは違うと思われませんか?

現在どこかの教団に所属しておられるのであれば、
教団方針とは違うものを求められる自覚はありませんか?
つまり明主様を型として、顕わされた御事績を体現し表現することが
自分にも出来ることを感得することはありませんか?

僭越ながら、私にはそのような意味合いがあると思わせていただいています。

Re: 改心 佐藤 孝

2022/09/25 (Sun) 09:29:59

先祖供養に廻向を採用と投稿したあと、読んだ人に意味が通じたかどうかが少し気になり
改めて調べてみたら一般的に、廻向とは読経やお布施によって云々、とあり。

あぁ、そんな意味もあるのかと、廻向の一言だけではおそらくどんな供養の在り方なのかが
伝わっていなかった事、また熟語の知識・認識不足も含め不本意だったので軽く補足します。
(白ぽっちさんは要点を捉えてくれたみたいで助かったけど、その他も考慮して)

自分が書いた廻向の意味は、自分の徳分を外側に廻すという意味で、自分に繋がる誰かを
自分の善行の力の源として生かす事が結果として供養になるという在り方のつもりでした。
想念的に結果から言えば、感謝の光を届ける様な感じになるのかな。お陰様で、みたいな事。

お盆関連でわりと有名どころの目連尊者の話で言うと、生前に母親が為せなかった善行を
代わりに自分が施す事で、その自分の善行の徳分を丸ごと母親に廻すという様な意味です。

別の言い方をすれば、亡き人の分まで強く生きる。自分自身が益々御神業に専念する事で、
その人の生涯・存在自体を、より意味あるものへと昇華させる的な事。

要するに誰かの存在のお陰で、自分自身がより精進出来る事。

私個人の具体例で言えば、例えば、りんたろうさん。
(掲示板上の一部の人にしか伝わらないかもですが。笑)

自分の中に融合させた誰かの存在を天国建設の為に真向かう力とする。みたいな感じです。
意外とこの供養(廻向)の在り方って、人の生死すら超えた領域で有効だったりする。

また、自分に縁あって憑いた憑依霊等に対しても(見えませんが)受け入れつつ共に歩めば
勝手に浄化されて行く事にも繋がるだろうし、万事幅広くこの供養に尽きるくらいの想いです。

「全てを生かそうとされる」真の神・創造神の御神意に適える最強の供養の在り方だと思っています。

以上、補足でした。

Re: 改心 佐藤 孝

2022/09/25 (Sun) 00:37:42

>肉体の都合か魂の都合かの違い

幽体離脱の体験が自分にとって何故必要だったのか、その理由をどう思うかという質問
であれば、自分の中である程度明確な答えを持っているので返答できますが、

質問が、その二つの違いについてどう思うか、という事だと、ちょっと質問の意味、
肉体の都合と魂の都合を、どう見分けておられるのかがよく把握出来ていないので、
ちゃんと返答が返せるか自信がありません。

明主様の死について書かれてますが、それは肉体を新たにする為(=肉体の都合?)ですか、
それとも経綸上の都合(=魂の都合?)と捉えての質問ですか?

違いについてどう思うかという事ですから、二つを理解した上で比較する事が必要になるかと思いますが、
逆に、魂に関係しない死ってあるのかな?とかも思ったりするので、
今のところ、ちゃんとは判りませんっていう答えしか返せないかも。

例えば自殺を例にあげて、肉体を使えない状態にする事で死を迎える訳ですが、それって
肉体の都合という意味になりますか?魂的?に言ってみれば自殺は神から死の許可が出た
のとも違うだろうけど、一方で自殺すら許されない(間一髪救われる)状況もありますから、

何を魂の都合と捉え、どの辺りまでを肉体の都合と捉えておられるのか、判断がムズい。

私の場合の話だと、肉体的にも魂的にも死の許可がまだ下りていなかった。そう判るのは、
無事に戻れて肉体を持って生きているという現象の結果(証)からです。
今でもまだ生かされているので、この現界でまだ何かしら使命・役割などある証とも思います。

あの体験は、冬の寒い時期でした。次の日テストだったので布団にうつ伏せての一夜漬け。
四畳半の部屋でストーブ炊いたまま換気もせずの長時間でした。首を上げている事に疲れ
うつ伏せると同時に「あ、このまま寝ちゃったら一酸化炭素中毒になっちゃう。換気しなきゃ!」

そう思って再び顔を持ち上げたらすぐ真下に自分の後頭部がある訳です(笑)

元に戻ってから急いで換気しましたが、もし戻るのが数分遅ければ肉体の方がアウトで
マジで死んでたと思います。もちろんその場合の死因は一酸化炭素中毒。
間違っても、霊体が抜け出したまま戻れなかった事が原因でしたの判定にはならない(笑)

いずれにしても素晴らしく貴重な体験だった事に変わりはないですね。

Re: 改心 建築屋

2022/09/24 (Sat) 10:37:34

佐藤さんは素晴らしい体験をなさったのですね。

魂が体と分離する時は、肉体がこれ以上使えなくて限界が来た場合と、
肉体は健康ではあるが、魂の都合で霊・肉が分離する場合がありますよね。

近親者が幽体離脱状態になり、一生懸命肉体に戻ろうとするも出来ず
諦めて離れて行った姿を娘が夢で見て、その後死亡が確認されたことがありました。
元気だったので未だに親族の中には納得できない気持ちも存在するものの、
心臓麻痺という死亡判定が出ている。

明主様も椅子に腰かけておられたところ、
奉仕者が目が届いていない時に椅子から転げ落ちた状態で亡くなっておられる。

判断するのはさておき、このように肉体の都合か魂の都合かの違いは何だと思われますか?

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/21 (Wed) 15:40:02

参照URL変更ありがとうございます。

>あらゆる無限の自由
というのは究極では主神様だけになってしまう

なるほど~。そこに繋がりますか。
匿名Xさんにとっての自由とは、『運命の枠内の自由』でしかないんですね。
実際に社会生活を送る上では、もちろん僕もそうですし、信仰者であればほとんどそうだと思います。

僕にとっては、まずは運命の枠内外含めた自由です。

この辺の物の見方は、理系的かもしれませんね。
数学的というか。
まず無限の自由があって、有限の自由が有る。

無限の自由と表現したのは、行動は自己責任、権利と義務はセットだよ、という意味を強く意識した結果かもしれません。

今まで書いてきましたが、カルト的・抑圧的信仰をしてきました。
そこで不自由・無責任を経験。
なので、自由及び責任に対する肯定感があるから、
無限の自由、という表現を使いやすいのかもですね。
有限の自由を分かった上で。

Re: 改心 - 匿名X

2022/09/21 (Wed) 14:38:29

http://www.rattail.org/secret/index.html

参照URLはアクセスできませんでした。
(ログインのためユーザー名&パスワードを求められます)

こちらへ変更されたほうが良いですね。↓
http://www.rattail.org/goronbun/shi/sinri03.html

こちらの御教えは人間やその他全般的なことみたいですね。
『神は人間に対し無限の自由を与えている』というのは『人間向上すれば神となり..』
というところからかも知れません。
まあ、神様レベルまで向上するというのは至難の業かと思いますし、あらゆる無限の自由
というのは究極では主神様だけになってしまうのだろうとも思ってしまいます。
【運命と自由主義】の御教えでは『宿命とはその人に与えられた決定的のものであるから、
いささかも換える事はできない』ということですから運命の範囲内の自由になるのだと思います。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/21 (Wed) 11:06:12

真理の具現

『神は人間に対し無限の自由を与えている、これが真理である、人間以外の動植物には自由は与えられていない、ここに人間の尊さがある。しからば人間の自由とは何であるかというと、人間向上すれば神となり、堕落すれば獣となるという両極端のその中間の位置に存在しているのが人間である、』
http://www.rattail.org/secret/index.html

つまり、『無限の自由』と表現されている時はなにをおっしゃりたいのか、
『有限の自由』と表現されている時はなにをおっしゃりたいのか。

を理解して思考・発言するべき、ということですね。

僕は、『有限の自由』と表現されている御教えは今まで知りませんでした。紹介ありがとうございます。

社会生活を送る上では当然『有限の自由』です。
しかし、意思次第で『無限の自由』も可能です。
結果は自己責任。
どちらも本当であり、何について述べているか、ということですね。

いつも思いますが、内容以上に、こうやって人それぞれの感じ方の違い・主観と客観の差を感じられることがありがたいです。

つい第一の自分だけになりがちなところを、第二の自分を作って省みる機会になります。

Re: 改心 - 匿名X

2022/09/21 (Wed) 10:37:45

>神は人間に対し、無限の自由を与えている。

無限の自由ではなく、有限の自由なのでは。

>その中で満足・納得できるように生きれば...

その中とは運命の範囲内ということになりますね。

参照元↓
http://www.rattail.org/goronbun/u/unmei01.html

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/20 (Tue) 10:29:29

>最終的には全て自分自身に帰結する。すごく満足してるし納得できてます♪

これにつきますね。

神は人間に対し、無限の自由を与えている。
であれば、
その中で満足・納得できるように生きれば、それでいいんじゃないか。

シンプルにそう思います。

Re: 改心 佐藤 孝

2022/09/19 (Mon) 09:25:41

久しぶり~♪

無信仰である事と、霊界の実在を信じない事は全然別物。という話も丁度書こうかと思って
いたところ^^

幽体離脱体験をしたのが高校生の頃で、死んでも死なない事、霊(界)の実在は知ったものの、
神仏の実在に関しては、それまで通り相変わらずの完全なる全否定(つまり無信仰)のまま、
21歳(救世教入信)までを実際に過ごしてきたので、

霊(界)の実在を知ったところで、人間はクズのまま(中身が獣のまま)でいられるんだよ。
という事実も、身をもって語れます(笑)

生きているうちに霊(界)の実在を認識出来ていれば、確かに自分の死をいち早く覚れる
という事の遅速に影響するとは思いますけど、でも役立つのはせいぜいそんなとこ止まり。

重要なのは、神仏の実在を信じる・信じないの部分。こっちがとにかく重要。

信じられる側に入った処で、そこから更に奥行きがあるので信じれたから大丈夫という
性質のものでもない。もちろん明主様を神と信じる事が救われる為の絶対条件っていう訳でもない。


先祖供養に関しては、今の自分は仏教の【廻向(えこう)】を採用しています。
これなら形に囚われる必要が一切無くなるし、あらゆる角度から検証してみましたが
これぞ真の先祖供養だと思っています。

最終的には全て自分自身に帰結する。すごく満足してるし納得できてます♪

もちろん、この価値観の固定は今現在のもので、今のそれよりも、もっと善い価値観に
出逢えたとしたら、いつでもそれを崩す準備は整っています。

Re: 改心 - 白ぽっち

2022/09/19 (Mon) 01:32:40

お久しぶりです♪

>死を境に自分の意識や思考や何かが特に変化する訳でもなく、今のまんま。何も変わらない。

僕は文献から想像するだけですが、きっとそうなんだろうと思う。
自分の死を認識していないと『中宥に迷う』。

無信仰の父が半年前に亡くなりました。
僕は歯磨き粉を全く使わないのですが、
父は亡くなる前認知症で、たびたび僕の歯ブラシを使って歯磨き粉をつけて歯磨きしていました。

現在でもたま~にですが、歯ブラシから歯磨き粉の味がすることがあります。
歯ブラシはすでに新しいものに入れ替わっています。
死後の世界で父が磨いているのかもしれない。迷ってなければいいんだけど。

自分の死を認識できるかどうか、がまず迷うかどうかの分岐点のように思っています。

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