明主様と平本親子 - 一番
2025/04/26 (Sat) 03:18:10
岡田茂吉全集を編纂された1人平本伸一先生、
これはイヅノメ誌にも載った。これには
具体的なことが書いてある、これを以前私は偶然、漫画にして自費出版しました、
これと、いづのめ教団の古参の先生がお持ちになった資料で、それが書いてあるから、
友人から是非読んでくれと送ってきました。
これは
1993年9月17日に出されました。一部
抜粋、
「このような親子でありましたので、 私が 昭和28年3月に御神業上奉仕を許されて以来、これまでの間に教団内のありふれた師弟関係として ご神業上の注意などは時折受けた事がありましたが、
昭和59年4月 私(平本伸一)が鳥取県本部長を罷免され、寮を拠点として活動している時に、母は萩から電話をかけてきて「お前の事は全て 萩へ来る時から明主様にお任せしてある事なので、御神業上の事で、お前がどんな事をしようと 何も言う事はない。
だがしかし 一つだけ守ってほしい事がある、それは今回の教団浄化の推移の中で、何が起きるか分からないが、
万が一にも、お前たちの活動が神様の時期に合わない為に失敗して、教団から追放される時が来るかもしれない。
その時は どんなに辛い苦しい事になろうとも、恥をかこうとも、韓信の股くぐりをして、絶対に教団から離れないと約束してくれ、
それさえ守ってくれるなら、あとは 明主様をひたすら見つめ続けて、 好きなように活動しなさい。」ということでした。」
(当時の教団状態をよく現していると思います。平本先生のお母様は鳥取を開拓布教された方、)
またその母の言葉に対して私自身も 昭和23年以来の教団の動向や先達の方のそれぞれの歩みを見ておりますので、
“石坂さんのように教団を離れたりするような事は絶対にしないから安心してみていて欲しい“と約束しましたが、
こうして母の残してくれた忘備録をよく読んで気づいた事ですが、
本冊子の51ページに母が夢の中で、「本教の将来を見せられた」と記述している部分に結びついた忠告ではなかったのかと、今つくづく思っている次第であります。
(中で秀明信者として 小山美秀子先生とその師の川上先生が少し 登場する。)(一番)(中略)
昭和18年 5月、
突然『西宮の川上(吉子さん)のところへ行け』との大先生のご指示を知らせる 井上さんのハガキが来た。
早速 西宮市へ行き、川上さん宅を探し当てて訪ねたが、 これといった 応対もなく 1時間足らずで追い返された。
11月3日 萩へ帰るため ご挨拶の時、『これから 浄化が強くなるが あなたは薬毒がないから羨ましい。 川上などはダメだ』とのお言葉があった。
昭和21年10月5日
神山荘へ着く、
大先生は 熱海へお引越しの支度中との事でちょっと気が抜けた。
大先生より『雲上観音様』を戴だく。
『これは川上(吉子)が申し込んでいながら受け取りに来ないから、あなたにあげる。
これを持って 私が熱海へ行く訳にはゆかぬのだ』とのお言葉である。
との事で 私はニ体戴いた事になった。その足で帰路へ着く。
(注、『雲上観音ご尊像』は神保修平さんが 昭和49年に京都教会長を拝命した記念として贈与する事となり、 改めて明主様のお計らいの深遠なる事を覚られた)
*川上ー小山美秀子ー 神保
とあります。川上先生は明主様とのお約束を破る事をされたんですね。
秀明では先の川上先生は不明と言っているので、この文章だけで、何か伺えますね。」